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zoom RSS 石田三成の実像1708大河ドラマ探訪424「真田丸」90 太田浩司氏「『真田丸』講座二」3忍城攻め1

<<   作成日時 : 2016/08/30 09:39   >>

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 27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、沼田領裁定について「真田丸」で描かれていたように、北条方、徳川方、真田方を呼び足して秀吉の前で裁判の形で裁定が下されたわけでないことを、天正17年11月24日付の豊臣秀吉朱印状をもとに説明されていました。このことは、拙ブログ記事で取り上げたことがありますが、その書状の中で、北条側の板部岡江雪斎を秀吉が呼び出して、沼田領の三分の二を北条氏に割譲し、三分の一を真田昌幸が引き続き支配するという裁定を秀吉が下したことが記されています。そこには家康方も真田方もいませんでしたし、ましてや昌幸が納戸に隠れて信繁から裁判の様子を聴くのは完全なフィクション(話を面白くするための)だと指摘されていました。
 「真田丸」で三成による忍城の水攻めが描かれていましたが、ドラマで描かれていたように、水攻めは三成が思いついたことではなく、秀吉の命令だったことを、当時の一次史料をもとに解説されていました。もっとも、この見解は、かねてより中井俊一郎氏が示されているものですが、講座では中井氏の名前は出ていませんでした。もっとも、太田氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で、水攻めの戦略決定は秀吉によって行われ、水攻めは秀吉流の派手な演出であったとするのが、中井氏の見解であることが記されています。
 講座では、行田市郷土博物館発行の図録「石田三成と忍城水攻め」の記述、天正18年6月20日付の三成宛豊臣秀吉朱印状、7月6日付の上杉景勝・前田利長・木村常陸介・山崎堅家宛の豊臣秀吉朱印状が資料(史料)として取り上げ、秀吉の命令であったことが示されていました。
 天正18年6月20日付の三成宛豊臣秀吉朱印状の解説には、「忍城水攻め築堤の絵図を承認したので油断なく行なうよう指示をしている。また浅野長吉・真田昌幸を派遣するので両人とよく相談するようにとも述べている」などと記されています。
 「真田丸」では、浅野長吉は出ていず、また昌幸や上杉が先に忍城攻めに来ていたものの、三成によって一旦別の城に回されるという描き方になっていました。
 図録「石田三成と忍城水攻め」 には、「三成は6月初旬には布陣を完了したと思われる」と記され、6月13日付の浅野・木村に宛てた三成書状が取り上げられ、その内容として「忍城攻めの準備が整ったので先鋒隊を引き上げるようにと秀吉から指示があったこと」、「忍城を包囲した軍勢は水攻めの用意をしているので城に攻め寄せる様子がないと記している」ことなどが述べられています。
 中井氏の「石田三成からの手紙」やオンライン三成会編「三成伝説」(共にサンライズ出版)には、これらの書状も論拠として挙げられています。

 

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