関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1722  江宮隆之氏「三成と家臣団の絆」1 信頼できる家臣を得るために 

<<   作成日時 : 2016/09/14 10:39   >>

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 江宮隆之氏の「三成と家臣団の絆」(『歴史人』9月号所収)で、「豊臣秀吉に仕えた際の『自分一人(ゼロからの出発)』に始まった石田家臣団が、関ヶ原の時点では5000人以上になり、しかもすべてが三成の『義』のために奮戦した」と記されています。
 三成の思いとして、「信頼できる家臣が欲しい。そのためには、自分が与えられた禄のすべてを費やしてもよい」と述べられ、「常に『良き家臣』『信頼できる相談相手』になり得る人材を探し求め」、その結果「一本釣りした猛将・勇将の類(たぐい)もあれば、改易になった大名たちを集団で召し抱えもした」と記されています。
 江宮氏の同書では、三成の家臣として具体的に「島左近」「渡辺勘兵衛」「石田一門衆」「舞兵庫ほか旧豊臣秀次家臣」「蒲生郷舎ほか旧蒲生氏郷家臣」が取り上げられています。
 三成の家臣団については、中井俊一郎氏の「秀次・蒲生牢人を吸収、三成苦心の家臣団構成」(歴史群像シリーズ戦国コレクション『決戦 関ヶ原』【学研】)の中でも論じられており、「石田三成家臣団の変遷」という表も掲載され、年代別、「一門衆」「牢人衆」「新参(生え抜き)」別にどのような家臣が召し抱えられたかがよくわかるようになっています。
 江宮氏の同書には、上述の三成の家臣についてその経歴や活躍ぶり、三成とのつながりなどが具体的に記されていてよいのですが、残念なことに、細かな点でいくつか間違ったことが記されており、その点が気になりました。その一つとしてまず島左近が三成に召し抱えられた時の記述で、「三成が水口城主になったのは天正11年(1583)であった」と記されていますが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも指摘されているように、三成が水口城主になった形跡はありません。水口城が築城されたのは天正13年ですが、その時城主になったのは中村一氏です。
 もっとも、三成が水口4万石の城主になった時、その半分の高禄で嶋左近を召し抱えたという逸話があることから、三成が実際、水口に所領を与えられた時期があったのではないかと思っています。白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中でも、三成が天正13年以前に水口に所領が与えられたと推定されています。もっとも、当時の三成の身分から考えて、石高は4万石ではなく、2万石前後であったのではないかということも記されています。
 また江宮氏の同書には、嶋左近は筒井家に仕える前、「甲斐・武田家に仕え、勇将・山県昌景の手に属していたという」と記されています。断定されているわけではなく、推定されているだけですが、これについては桐野作人氏の「真説関ヶ原合戦」(学研M文庫)などで否定的が示されています。
 

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