関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1734 旅行記77東北9 三成の孫の杉山吉成の墓・吉成の事績

<<   作成日時 : 2016/09/26 17:27   >>

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写真は弘前の宗徳寺にある、三成の次男・杉山源吾の息子である吉成の墓を撮ったものです。杉山家当主の杉山丕氏や息子さんの案内で訪れました。残念ながら、杉山源吾自身の墓は境内にはありません。吉成の墓は、杉山家代々の墓とは少し離れたところにあります。宗徳寺の杉山家の墓の写真は、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも掲載されており、代々の墓に「豊臣」の姓が刻まれていることが記されています。肉眼で「豊臣」の字が確認できる墓もありますし、消えかかってよくわからないものもありました。
 杉山源吾の墓については、杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所収)に次のように記されています。
 津軽に逃れて暮らした深味にあった杉山屋敷にあった赤松とオンコ(イチイ)の木の「根の上に、高さ70センチばかりの石塔があり、昨年亡くなった神弘見氏が拓本を採った結果、『南無観世音菩薩』と刻まれており、杉山家二代吉成が、杉山源吾の供養塔として建てたと思われる」と。江戸時代、謀反人と見なされた三成の次男ですから、名前を書くのは憚れたのかもしれません。
 吉成は津軽家に仕え、重臣として重んじられましたが、吉成について、杉山丕氏の同書で、次のように記されています。
 「吉成は、元和7年(1621)15歳になり、元服し、信枚の招きで津軽家に出仕し、300石を拝領し、後には1300石の家老となり、杉山家の基となった」と。
 津軽信枚に嫁いだ、三成の三女辰姫は元和5年に、後に三代藩主となる信義を生んでいますから、このことも吉成が出仕することに大きな影響を与えたものと思われます。
 吉成の功績として、杉山氏の同書には、 次のようなことが記されています。
 「寛文9年(1669)、蝦夷地で起こったアイヌの蜂起、シャクシャインの戦いで、幕府の要請を受け、弘前藩侍大将として総勢700名で蝦夷地に渡海し、のちに幕府から褒章を授与された」と。
  蝦夷地出陣の時に使ったとされる陣幕が、この翌日に訪ねた板柳町の深味八幡宮の拝殿に展示されていました。吉成が三成の孫であることを幕府が知っていたのかどうか気になりますが、そもそも三成の血が徳川家に入っていますから、この時点ではあまり問題にならなかったのかもしれません。すなわち、三成の次女が生んだ吉右衛門の娘・お振の方が三代将軍家光の側室になり、千代姫を生んでいます。千代姫は尾張藩二代藩主の光友に嫁ぎ、後に三代藩主となる綱誠(つななり)を生みました。

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