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zoom RSS 石田三成の実像1714 大河ドラマ探訪427「真田丸」93 太田氏「『真田丸』講座二」5 売僧の利休

<<   作成日時 : 2016/09/05 10:31   >>

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 8月27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、沼田領裁定について「真田丸」で描かれていたように、北条方、徳川方、真田方を呼び出して秀吉の前で裁判の形で裁定が下されたわけでないことを、天正17年11月24日付の豊臣秀吉朱印状をもとに説明されていました。このことは、拙ブログ記事で取り上げたことがありますが、その書状の中で、北条側の板部岡江雪斎を秀吉が呼び出して、沼田領の三分の二を北条氏に割譲し、三分の一を真田昌幸が引き続き支配するということを告げたことが記されています。
 「真田丸」では千利休切腹事件の理由は北条氏との鉛の売買が発覚したからだというふうに描かれていましたが、太田氏の講座ではそれは根拠なしだと指摘されていました。利休の「売僧」としての金品授受が問題になったのは事実であり、そのことがフィクションとして北条氏と武器関係の取引があったというふうに描かれたのだろうと。このことは、拙ブログでも以前指摘しました。
 利休切腹真事件に関して、講座の資料で取り上げられていたのは、米原正義氏の「千利休のすべて」(新人物往来社)です。米原の同書では、利休が切腹した翌日に、当時京にいた伊達政宗の家臣の鈴木新兵衛が、国元の伊達家家老の石母田安房守景頼に宛てた書状が紹介されていますが、利休が「自身の木像を作って大徳寺に納め置いたのを、秀吉がとがめて召し上げ、磔にかけたのだと述べ」、また「茶湯之天下一宗易、無道之刷(つくろい)、年月連続」と記されています。後者については、「当時の日記や後の記録に照らしてみると、新作の茶湯の道具を高値で売ったり、あるいは道具の価値についての目利き(鑑定)を不正に行って、不当な利得をあげているといわれ」、「利休は『まいすの頂上』として、そこを突かれた」と指摘されています。「『まいす』とは、売僧、すなわち悪徳の法師、商売をする僧の意である」と説明されています。
 もっとも、「利休は、これらの件について、最後までえん罪と考えていた。だからこそ、自らを菅原道真にたとえた歌を作っている」などと、米原氏の同書には記されています。
 大徳寺の木像に関しては、「古渓宗陳以下、大徳寺の三人の長老も、呼び出しを受けて尋問され」、「秀吉は、三長老をも磔に処するつもりであったが、母大政所と実弟秀長の妻との取りなしによって、これは免れたという」と記されています。
 講座では触れられていませんでしたが、三成と大徳寺の関係は深いものがあり、後に三成が処刑された時、遺骸を引き取ったのが大徳寺の春屋宗園(三成の参禅の師)たちでしたから、利休事件に三成が関わっていたとは到底考えられません。
 

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