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zoom RSS 石田三成の実像1715大河ドラマ探訪428「真田丸」94太田氏「『真田丸』講座二」6 秀吉の秀頼溺愛

<<   作成日時 : 2016/09/06 10:40   >>

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8月27日に長浜で行われた太田浩司氏「大河ドラマ『真田丸』を3倍楽しむ講座 第二回」で、米原正義氏の「千利休のすべて」(新人物往来社)が取り上げられたことは前述しましたが、米原氏の同書では、利休は切腹したのではなく、生きていたということが結論付けられています。その根拠となっているのは、利休切腹の翌年の文禄元年の5月6日付で、秀吉が大政所の侍女に宛てた親書の「きのふりきうの茶にて御せんもあかり」という記述です。米原氏の同書では、「秀吉が利休を切腹させたことを後悔していると解釈する」桑田忠親氏、林家辰三郎氏、村井康彦氏の説を否定し、「書状に書かれているのは、利休の茶で食事も進んだ、ということで」、「秀吉が名護屋城で利休に遭い、久しぶりに利休の茶を飲んだので、気分もよくなり、食も進んだのであろう、と読みとるはずである」と論じられています。
 もっとも、太田氏は米原氏の見解には同意を示されず否定的でしたが、確かに私もこれは突飛な説だと感じました。
 利休切腹事件に関して、「真田丸」では、豊臣秀長が利休のことを秀吉に悪く言っていましたが、秀長がそんなことを言うはずがないと小和田氏は述べておられ、その点は私も同感です。「真田丸」では、秀長は大谷・三成の要請を受けて秀長が秀吉に利休のことを告げるという形になっていましたが、利休の件は別にして、三成が秀長と親しい関係にあったのは事実です。
 太田氏の講座では、利休・秀長と奉行衆の間に軋轢があり、それが事件の背景にあったとする見解が述べられていましたが、少なくとも三成が利休・秀長と対立していたとは考えられません。
 三成が事件に関係していなかったということに関しては、大徳寺との深い関係、事件が問題となった時には三成は京にはいず、事件を画策できなかったという点が挙げられますが、こういう点がほとんど考慮されていない小説やドラマが多すぎます。太田氏の講座でも、こういう点に触れてほしかった気がします。
 秀吉が秀頼をいかに溺愛していたことについては、「真田丸」でも描かれていましたが、太田氏の講座でもいくつかの秀吉書状が挙げられて、その内容が紹介されていました。
 すなわち、自分の子に「お」を付けず「ひろい」と呼ぶように記した北政所宛の秀吉書状、秀吉が「とと」と署名した「ひろい」宛ての書状、「ひろい」への「やいと」を禁じた秀吉の書状、「ひろい」に無礼を働いた侍女たちをたたきころすという過激な文言を記した秀吉書状など。
 秀頼が秀吉の子ではなかったという説が相変わらずありますが、こういう書状を見る限り、それはありえないという気がします。

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