関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1739 旅行記81東北12 石田重成が落ち延びて暮らした津軽の深味・八幡宮・屋敷跡

<<   作成日時 : 2016/10/01 10:34   >>

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写真は津軽の深味八幡宮の鳥居を9月18日に撮ったものです。奥に拝殿があり、三成の次男の子孫である杉山家関係のものがいろいろと展示されていました。前にも拙ブログ記事で述べたように、三成の孫に当たる吉成が、蝦夷地出陣の時に使ったと思われる陣幕もありました。
 深味は、大坂城から逃れた三成の次男・重成が杉山源吾と名前を替えて隠棲した場所であり、神家が世話しました。神家は上方に住んでいたことがあって、会話に不自由しなかったと、神家の子孫の方が語っておられました。
 片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)に、深味と杉山家について、「板柳町史」の中での記述が引用されています。
 すなわち、「(源吾の)子八兵衛吉成は、寛永10年(1633)、津軽三代信義に召し出され、その後深味は杉山家の知行地となった。現在の深味八幡宮も、先祖代々の武運長久のため建立したと伝えられ、杉山氏は家臣とともにこの地に隠棲しながら、開墾に当たったものであろう」などと。
 神家の人の案内で、八幡宮の拝殿、社殿の横の道を通って、近くにある杉山屋敷跡へも行きました。アカマツの老木がそびえ、その木の根元に小さな碑があり、それが源吾の供養塔ではないかと思われているということも、以前に拙ブログ記事で記しました。りんご畑も広がり、民家も建っていました。最近は三成人気ということもあって、深味八幡宮や杉山屋敷跡を訪ねる若い女性が増えているという話もお聴きしました。
 吉成が生まれたのは慶長12年(1607)頃であり、弘前城に召し出されるまで杉山屋敷で過ごしました。父の源吾は慶長15年に大舘に移されましたが、そのことについて、杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子』所載)の中で、「移ったその年、三成三女が津軽家二代信枚に嫁いで来ており、その嫁ぎ先がこの大舘なので、源吾は妹辰姫の世話役に任じられた」と記されています。
 辰姫が32歳で亡くなった後の源吾ですが、杉山氏の同書には次のように記されています。
 「江戸早稲田に移り住み、津軽家から四百石の合力米を支給されたとのこと。おそらく兄・宗亨禅師を始め、一族の連携にあたったものと推測される。寛永18年(1641)53歳で亡くなる」と。
 宗亨禅師とは、三成の長男重家のことであり、関ヶ原の戦いの後、出家し、その後、妙心寺寿聖院の住職になっています。重家のことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「石田重家」の章で詳しく述べられていますが、重成(源吾)よりずっと長生きであり、103歳で亡くなっています。

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