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zoom RSS 大河ドラマ探訪444「真田丸」111 信繁は第一次上田合戦に参戦していたという寺島隆史氏の見解

<<   作成日時 : 2016/10/12 10:38   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、第一次上田合戦の際、上杉氏の人質になっていた信繁が、上田に戻って、昌幸・信幸と共に家康相手に戦い、味方を勝利に導く場面が描かれていました。信繁がこの戦いに参加していたということについての否定的な見解を、4月20日付の拙ブログ記事で、橋場日月氏の「知れば知るほど面白い 人物歴史丸ごとガイド 真田幸村」の中の記述をもとに紹介しました。
 すなわち、この時期、「幸村は上杉氏の人質として過ごしており、帰国を希望してもかなえられる筈もな」く、「幸村が上杉氏の人質となった天正13年(1585)から翌年5月までの期間には該当する事件というものは無い」と。また、「上田軍記」や「真田家文書」に幸村が戦いに参加したことが記されているものの、事実ではないということも同書に記されています。
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社)には、信繁の参戦について、次のように記されています。
 「越後に人質に赴いていた信繁がこの戦いに参加していたというのは、いかにも怪しい。ただし、天正14年に昌幸正室山之手殿が海津に人質に赴いているから、一時的に信繁が上田に戻り、代わりに山之手殿が人質に出されたとする説もある」と。
 丸島氏は否定的に捉えられており、それが通説になっています。しかし、引用した丸島氏の文章の後半部分に、肯定的な説があることも併せて記されています。
 こういう肯定的な見解が示されているのが、寺島隆史の「真田弁丸をめぐって」(「真田丸」展の図録に収録)です。
 信繁は人質というだけではなく、「知行も給付された上杉家臣でもあった。真田氏危急存亡のときにあたり、上田へ帰って戦いたい、と強く望んだものであろうし、それが認められたとみられるのである」と。
 その根拠として、まず「この戦い前後に、信繁の母親寒松院(山之手殿)が上杉方の海津城にいたこと」が挙げられていますが、これは上述の丸島氏の文書でも示されています。
 次に、「矢沢頼幸も、やはり合戦直前に上田へ帰ったとみてよい」と記され、その根拠として「矢沢頼幸に宛てた、上杉氏の海津城代須田満親の8月29日付書状からも確認できる」ことが挙げられています。その書状に記されている頼幸の代わりの人質とは、信繁ではなく、頼幸の子か弟(いずれにせよ幼児)であったということも指摘されています。
、 それらのことから、「信繁(弁丸)と矢沢頼幸は、一旦越後へ行った後、開戦直前に上田へ帰って参戦、とみられる」と結論づけられています。
 

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