関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大河ドラマ探訪445「真田丸」112 「真田丸」展3 信繁が代筆した昌幸書状・金を催促する昌幸書状

<<   作成日時 : 2016/10/13 17:21   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 大阪歴史博物館で開かれている「真田展」の図録には、信繁が代筆した、信之宛の昌幸書状が掲載されています。私が見たのは2日であり、この書状の展示は5日からで、見ることはできませんでしたが。年不詳の4月27日付のもので、真田宝物館が所蔵しています。図録には、この書状について、次のように解説されています。
 「真田真幸最晩年、慶長16年頃の九度山より上田にいる信之に宛てた書状。信之の病気回復を喜ぶ一方、昌幸自身が病気で困惑している状況を述べる。配流生活十余年、養生し、平癒して顔を合わせたいと思っているので安心してくれ、と結ぶ。この書状は信幸の代筆ともいわれる。
 昌幸没後は、供奉衆には上田に帰国するものがおり、『高野山蓮華定院書上』によると、信繁は『ひとしおそさぶ(寒)く』と淋しい様子を書き記している」と。
 また「真田丸」展の図録には、年不詳正月5日付の昌幸書状が掲載されていますが、この書状も5日からの展示だったので、見ることはできませんでした。図録には、この書状について、次のように解説されています。
 「長文の折紙書状であるが、内容は扶助金の催促である。高野山麓の九度山での生活は苦しかったらしく、本状では『蔵人(昌親=昌幸三男)からの臨時の合力四十両のうち、二十両は受け取った』『こちらは借金が多く難儀しているので、残りの二十両も一日でも早く届けてほしい』『今年の分も十枚程は春のうちに届けてほしい』『できなければ五枚でも六枚でもよいから持参して来てほしい』と文字どおり矢のような催促である」と。
文中に、「昌親=昌幸三男」とありますが、柴辻俊六氏の「真田昌幸」(吉川弘文館)には、「三男信勝」とあり、「昌親」は「末男」と記され、昌親について次のように説明されています。
 「『寛政重修諸家譜』に、母は某氏で内匠(たくみ)と称し、三男信親が別家を興したが、その子が宗家の養子となったので絶家とのみ見えるだけで、他に記録はみられない」と。
 一方、「信勝」については、柴辻氏の同書に、次のように解説されています。
 「生年も母もはっきりせず、言及したものも少ない。佐馬助(さまのすけ)と称し、慶長10年(1610)2月に二代将軍秀忠の上洛の折りに大番組として供奉したとみえ、同14年9月には江戸において戸田半之丞と私闘におよんで憤死したとあるが、出典は確かなものでなく、詳細は不明である。(中略)幕臣となっている点からみて、長兄信幸の引き立てがあったものと思われる」と。
 「真田丸」には、信勝も昌親も出ていませんが、ドラマを単純化するために省略したものと思われます。昌親は昌幸に援助していることからみて、関ヶ原の戦いで信幸方についていたことは確実です。
 
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大河ドラマ探訪445「真田丸」112 「真田丸」展3 信繁が代筆した昌幸書状・金を催促する昌幸書状 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる