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zoom RSS 大河ドラマ探訪436「真田丸」103信繁と秀次の娘との子の「御田の方」3真田家再興のために妙慶寺建立

<<   作成日時 : 2016/10/04 10:38   >>

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 佐竹義宣の弟の宣家は亀田藩の藩主になりますが、その経緯について、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」書について次のように記されています。
 「数年後、佐竹家に家督継承問題が発生。秀忠の指名により亀田藩藩主の岩城義隆(佐竹義宣の甥)が久保田藩藩主となる。空席となった亀田藩の藩主を重隆が勤めることとなり、『直』の夫宣家が番代となり亀田藩を治めることとなった。その後、宣家には官位が与えられ正式に藩主として認められるようになり、名も岩城宣隆と改める。
 これによって側室だった『直』も正室となった」と。
 まず、佐竹家の家督継承問題ですが、佐竹義宣が後継ぎに決めていた弟の義直(義宣の実子は夭折)が失態を犯したため廃嫡されたことが発端でした。佐々木氏の「顕性院・御田の方」の「年譜」によれば、「直」(御田の方)が重隆(幼名は庄次郎)を桧山城(現 能代市)で生んだのは寛永3年(1626)のことであり、重隆が亀田藩藩主を拝命したのは寛永5年ですから、わずか3歳のことです。宣家が藩主として認められ、「直」が正室となったのは寛永11年のことです。。
 寛永6年には、「直」は亀田に妙慶寺を建立(当初は久保田城跡に建立)しましたが、その目的は「父母の菩提を弔い真田家を再興するため」だと佐々木氏の同書に記されています。「夫の宣隆公もまた、御田の方の弟である真田幸信を呼び寄せ真田家再興に協力している。真田幸信は亀田藩士となり母方の姓である三好を名乗った」ともあります。
 「妙慶寺の宝物殿の寺宝 御田の方ゆかりの品々」には、寺の井戸から発掘された小石」の写真が掲載されていますが、「真田家再興を願って小石に墨と膠で書かれた漢字一文字。優しい筆跡である」と説明されています。
 寛永10年に、「直」の母である隆清院が京で亡くなっています。隆清院は、菊亭晴季の娘であり、秀次事件の際、連座し、一時越後に流されますが、許されて京に戻り、元和3年(1617)に亡くなっています。
 隆清院の死の際、岩城家は特使として妙慶寺の日砌上人を派遣しますが、「妙慶寺史蹟案内」の「顕性院殿」にこの時のことが詳しく述べられています。
 すなわち、「(隆清院)の葬儀はすでに祖父母の菊亭大納言右大臣晴季の墓所に埋葬されておりました。日砌上人は近親者の参集をうながし丁重なる報恩供養を厳修せられました」、このことを聞いた明正天皇は日砌上人の登城を促し「明正天皇は顕性院さまのことや東北の風土をおたずねになりましたら後、深く日砌上人の労をねぎらうかのようにして御紋つき法衣(現存)の下賜がありました」などと。
 
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