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zoom RSS 大河ドラマ探訪457 「真田丸」124 太田浩司氏「『真田丸』講座」第三回5 犬伏の密議?小山評定?

<<   作成日時 : 2016/11/28 17:47   >>

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 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」第三回で、「真田家が東西両軍に分かれた場所は犬伏か?」ということについても触れられ、上野板鼻・下野天明という記述もあることが述べられていました。
 そのことを示すものとして、「落穂集」に、真田昌幸は天明に陣を張り、そこに犬伏にいる信幸を呼び寄せたという記述があること、「信濃史料」の中の「但馬出石仙石家譜」に、会津攻めの際、千石秀次が来るのを、昌幸が上州板鼻で待っていた時、夜に変心し引き返したという記述があることが挙げられていました。板鼻は天明より手前の位置にあることも述べられていました。
 「真田丸」では、信幸が家を残すために敵味方に分かれ、とぢらが勝ってもお互い命が助かるように尽力しようと提言していたというふうに描かれていましたが、「落穂集」には真田親子が喧嘩別れしたことが記されていることも触れられていました。
 また「真田丸」で家臣が会議の場を様子を見ようとして下駄を投げつけられ、歯が欠けるという場面が描かれていましたが、このことは「綱徳家記」に記されており、その部分も史料として講座のレジュメに掲載されていましたが、この時歯が欠けたとされる右京亮綱家はこの時、実際は大坂にいたと指摘されていました。このことは拙ブログで触れたことがあります。
 また三成らの挙兵を知った家康が7月25日に開いたとされる小山会議について、「小山会議は真実か?」という問題が提示され、「7月25日の小山会議に福島正則はいない」「家康との接見もなく会議の体をなさない」という見解が示されていました。
 その根拠として、白峰旬氏の「フィクションとしての小山評定ー家康神話創出の一事例」(『別府大学大学院紀要bP4』所載)が挙げられていました。その中で、7月19日付の福島正則宛徳川家康書状で、上方で騒動が起こっているということで、福島の軍勢は上方へ行かせ、福島自身はこちらに来てほしいという内容が記されていること、7月24日付の福島正則宛徳川家康書状(写)に、軍勢はとどめて、福島自身はここまで来てほしいという内容が記されていることが根拠として示されていました。
 また「慶長年中ト斎記」に記載されている小山評定の記載が、一般的に知られている内容(そのもとは『徳川実記』の記述によっています)とは大きく異なっていることも取り上げられています。
 すなわち、「慶長年中ト斎記」には、家康は武将たちのいる大広間には出てこず、本多忠勝と本多正信が一方的に家康の言葉を言い渡し、武将たちはそのまま大広間から出たと記され、正則が「三成を討とう」とか山内一豊が城を明け渡すことを申し出たとかいうような話は一切出て来ません。

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