関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1762 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」5 激戦の様子

<<   作成日時 : 2016/11/04 10:00   >>

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  白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の中で、島津家家臣史料の検討によって、白兵戦の実態についてわかることとして、次のようにまとめられています。
 「@『(家康方軍勢の)猛勢を間近くまで寄せ付けて一戦すべし』、『敵勢が間近くまで攻め寄せた時』とあるので、一方的に敵(家康方軍勢)が攻め寄せてきたことがわかり、最初から防戦だった、ということを示している、A島津勢では敵(家康方軍勢)を十分近くまで引き付けてから鉄炮を使用する予定であったが、逆に引き付けすぎて、すぐに大乱戦(白兵戦)になってしまったため、鉄炮が役に立たなかった、Bそして大乱戦(白兵戦)になると刀を使用するので、持っている鉄炮が邪魔になり、鉄炮を腰に指したり、首にかけたり、鉄炮を捨てたりした、C島津家中では、白兵戦の前に鉄炮戦をしようとした(敵を引き付けすぎて結果的にはできなかったが)、ということがわかる」と。
 一方、三成や小西行長方の白兵戦は、島津方とは実態が違ったことが、「長野勘左衛門由来書覚書抜」の記載をもとに、次のように指摘されています。
 すなわち、「『石田殿・小西殿の人数が家康方の軍勢に向き合って、鉄炮の合戦(=鉄砲の撃ち合いという意味であろう)をして、それから太刀打ち(白兵戦の意味であろう)になり、激しい合戦(=激戦という意味であろう)になった時(後略)』と記されているので、石田三成、小西行長の軍勢では、最初に鉄炮の撃ち合いをおこない、それから白兵戦(太刀打ち)へ移行して激戦になったことがわかる」と。
こういう記述からは、戦いの時間が通説よりも短かったとしても、激戦が行われたのは確かだということがわかります。敵味方が乱れての白兵戦の大乱戦になったという指摘は、関ヶ原の戦いの実態を検討し直す必要性を感じました。
 また白峰氏の同書では、「島津義弘が退却後、一時は大垣城に入ろうとしたができなかった理由として、@野心(裏切り)が多いため城中のことが不審なので伊勢路を通ることになったという記載」と「A大垣城を見ると、本丸に火がかかり落城していたので籠ることができず、伊勢路に向かって行くことにした、という記載」「に分かれる」と指摘されています。
 大垣城の実際の開城は、関ヶ原の戦いから8日後の9月23日のことですが、関ヶ原の戦いの前後の大垣城の様子について、大垣市文化財保護協会発行の「大垣城の歴史」には、「西軍の本隊が大垣城を退去した9月14日夜、曽根城の水野勝成・西尾光教らは大垣城を攻めて三の丸を破るが、二の丸は落とせなかった。そのため15日未明、城下に放火して林村へ退却した」と記されています。島津勢が見たのは、放火された城下だったのかもしれません。

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