関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1764 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」1 布谷陽子氏が指摘した諸点

<<   作成日時 : 2016/11/06 23:43   >>

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 白峰旬氏は三成が挙兵し、「内府ちかひの条々」が出されて以降、関ヶ原の戦いまで石田・毛利連合政権が成立していたと主張されており、その見解については「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で初めて知り、拙ブログ記事でも紹介しましたが、白峰氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)で、その発給文書を時系列データベース化することにより、そこから読み取れる論点や、石田・毛利連合政権の歴史的意義について考察されています。
 まず布谷陽子氏の研究ノート「関ヶ原合戦の再検討ー慶長五年七月十七日前後ー」について、「関ヶ原合戦における中心人物は石田三成とするのみとするのではなく、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老、前田玄以・増田長盛・長束正家、そして三成の四奉行が中心となって形成され」、「輝元対徳川家康という構図もかねてから存在していた」、さらに二大老・四奉行以外に「小西行長や大谷吉継も挙兵に深く関わっていた」と指摘されています。
 次に布谷氏の論文「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」については、白峰氏によって次のようにまとめられ、評価されています。
 「二大老・四奉行が合議により戦略を立案したこと、二大老・四奉行には役割分担があったこと、軍事指揮は二大老・四奉行を軸としてそこに島津義弘、小西行長、大谷吉継が加わって進行したこと、二大老・四奉行を中心とした組閣は豊臣政権体制の存続という意味で重要であったなどが指摘されており、上述した布谷ノートでの指摘と同様に石田三成一人を反家康の首謀者と考えるのではなく、二大老・四奉行という組織を反家康の核として見なすべきである、という点において通説とは異なる指摘であると評価できる」と。
 布谷論文では、「西軍が合議のもとに戦略を練っていた」ことを示すものとして、「(慶長5年)8月2日付真田昌幸宛二大老・四奉行連署状」が挙げられています。もっとも、二大老・四奉行連署状としては、白峰氏によって初見は8月1日付の木下利房宛のもの、蒔田広定宛のものがあることが示されており、それらの書状は「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」の表に掲載されています。
 この「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」の表は画期的なものであり、それぞれの書状について「月日」「発給者」「宛所」「内容(摘要)」「史料典拠」が記されています。三成の書状もこのように時系列データベース化ができないものかと思っており、オンライン三成会のオフ会でも、そういう話が出たことがありますが、それをするには相当な時間と労力がかかります。宇土市教育委員会発行の「小西行長基礎資料集」の三成版のようなものができればよいのですが。

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