関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1797  松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」5 関ヶ原合戦の経緯3

<<   作成日時 : 2016/12/16 00:40   >>

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 松下浩氏の講演「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」の中で、関ヶ原合戦の経緯が述べられていましたが、昨日付拙ブログ記事の続きです。
 佐和山城攻撃は16日から始まりますが、籠城衆は石田正継・正澄らであり、攻撃軍は大手が小早川秀秋、水の手(搦め手)は田中吉政、松原口は石田雅樂助、彦根道切通は石川民部、佐和山城が陥落したのは17日だと説明されていました。
 佐和山城攻撃の史料として、9月28日付の伊達政宗宛の「結城秀康書状」と「家忠日記増補追加」が取り上げられていました。前者の書状では、「去十七日二さを山へ山中より取かけ、則乗取申候、水之手を田中兵部取、せめおとし申候(後略)」などと記されています。
 この書状で、秀康は「羽三河守」、宛名の伊達政宗のことは「羽越州様」と記さしており、「羽」は「羽柴」のことであるので、この段階でも豊臣が機能している証だと説明されていました。
 後者については、16日、17日の具体的なことが記されていますが、17日には、次のようなことが記されています。
 「井伊直政、佐和山ノ城水ノ手ノ方ニ廻テ襲撃、城に火を放テ乱入ス、城兵狼藉 防クコトヲ得ス、石田三成カ妻ヲ始、籠城諸士ノ妻悉ク刺殺 石田隠岐守・其子石田木工頭・宇多下野守三人之守将自害ス、土田ノ某是ヲ介錯ス、残ル城兵皆自殺 佐和山ノ城陥ル(後略)」と。
 三成の妻は佐和山城で亡くなったと記され、大河ドラマ「葵 徳川三代」でも、薙刀をふるって壮絶な最期を遂げる姿が描かれていましたが、白川亨氏によって、佐和山を脱出し、生き延びたことが突き止められました。
 「石田隠岐守」は三成の父である石田正継、「石田木工頭」は、三成の兄の正澄、「宇多下野守」は、三成の妻の父にあたる宇多頼忠のことです。宇多頼忠の子の頼次は、正継の猶子になりましたから、三成とは義兄弟になります。彼らが佐和山城で亡くなったのは確かです。
 「土田ノ某」は、山田喜庵の「佐和山落城記」の中で、土田東雲斎として出て来る人物であり、敵が入ってくるのを防ぐために、金銀銭を櫓から投げ、またみんなが自害した後、城に火を放ったと記されています。
 講演会では触れられていませんでしたが、三成が捕縛されたのは21日です。
 毛利輝元が、大坂を退城したのは25日、三成・小西行長・安国寺恵瓊が京都六条河原で処刑されたのは10月1日だと説明されていました。 

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