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zoom RSS 石田三成の実像1800 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」13 8月2日付細川幽斎書状

<<   作成日時 : 2016/12/19 11:00   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、慶長5年8月2日付で出された細川幽斎書状が史料として取り上げられています。この書状の内容について、「細川家が豊臣秀頼から後成敗を受ける理由に対する、細川幽斎の反論として受け取ることができる」と記されています。細川家が御成敗を受ける理由については、慶長5年7月17日付の別所吉治宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状の中の内容が紹介されていました。
 すなわち、「@細川忠興はいずれの忠誠もなく、秀吉が取り立てた福原長高の跡職を家康より扶助された、Aこの度は何の咎もない上杉景勝への発向について家康に助勢し、忠興の一族がすべて出陣したことはどうしようもない、Bよって、秀頼様より御成敗のため各自の軍勢を遣わす、というものであった」と。
 福原直高(尭)については、安藤英男氏・斎藤司氏の「石田三成家臣団事典」(安藤氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】)の「【付】石田三成の姻戚」の中で、次のようなことが記されています。
 「三成の妹婿」、「文禄3年、但馬の豊岡で2万石を与えられ、同4年7月、1万石を加増された。慶長2年2月、豊後三郡を加増され、都合12万石を領し、豊後荷揚城(大分)に移った。慶長の朝鮮役には先手目付を命じられ、熊谷直盛、垣見一直らと渡鮮した。秀吉が薨ずると、かつて在鮮した諸将に私曲ありと訴えられ、慶長4年4月、徳川家康の干渉で6万石に削減された(後略)」と。
 「私曲」とありますが、福原ら奉行衆は在鮮諸将らが蔚山城籠城戦の際、敵を追撃しなかったり、戦線縮小案を唱えたりした事を秀吉したため、諸将は処分を受けたものの、これは事実であり、讒言したわけではありません。福原らは三成派であったため、諸将らは三成に怒りの矛先を向けるわけですが、もともと三成は和平派であり、福原らと在陣諸将との板挟みにあって、心の中で葛藤があったのではないかということは、拙ブログで何度か触れました。
 秀吉の死後、在陣諸将の訴えを三成を取り上げることはありませんでしたが、三成が七将による襲撃事件の責任を取らされて、奉行職を解かれて佐和山に蟄居した後、家康はこの訴えを認め、福原らに処分を下し、福原の所領を削って忠興に与えるわけです。
 幽斎の反論については、白峰氏の同論考に次のようにまとめられています。
 すなわち、「@細川幽斎は信長の時代、秀吉の時代も相応の忠節をおこない、近年に至っては秀頼様に対してどうして疎略にしているだろうか、A細川忠興が(上杉討伐のため)関東へ出陣したのは、家康が世間の後見であるので(秀頼様に対する)奉公になるべくところ、(上杉討伐に行ったことを攻められるのは)思いもよらなかった」と。
 上杉攻めは、豊臣公儀による公戦という位置づけでしたから、幽斎の反論はある意味、正論と云えます。もっとも、「内府ちかひの条々」が出されたことによって、家康の公儀性は奪われてしまうのですが。

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