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zoom RSS 大河ドラマ探訪462 「真田丸」129 新史料による信繁の最期・「歴史秘話」の千田嘉博氏の見解

<<   作成日時 : 2016/12/20 18:59   >>

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 大河ドラマ「真田丸」が終わりました。真田信繁の最期について、ドラマでは佐助の介錯を受けて切腹しようとする場面が描かれていましたが、実際に信繁を討ち取ったのは、越前北庄城主の松平忠平隊の西尾宗次(仁左衛門) でした。拙ブログ記事で前述したように、「真田丸」展で、西尾宗次が造立したと伝わる、「真田地蔵」と云われている「石造地蔵菩薩」が展示されていました。
 もっとも、信繁の最期については、近年発見された史料によってわかったということが、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)に記されています。すなわち、その史料は「越前松平藩の家譜である」、「忠昌様大坂ニ而(て)御戦功有増(あらまし)」であると。丸島氏の同書に記載されているこの史料についての内容は、5月1日付の拙ブログ記事でも取り上げましたが、改めて繰り返します。
 「信繁は生玉と勝鬘(しょうまん)の間の高台で一人、身体を休めていたようである。そこに、越前藩士西尾仁左衛門が姿をみせた。(中略)西尾は信繁を『よき敵』と考えて言葉をかけた。(中略)信繁もまだ乗馬しており、ともに馬から下りたのである。信繁は、ここで覚悟を決めたとみてよい。そこで鑓を交わしてついに突き倒され、首を取られた」と。
 「なおこの場所は、茶臼山の北方にあたる。信繁戦死の地とされる安居神社は勝鬘の南にある」とも記されています。
 勝鬘は、愛染堂勝鬘院のことであると思われます。2013年6月17日付の拙ブログで愛染堂勝鬘院の写真を貼付しましたが、ここも子供の頃からよく遊びに行っていましたし、「愛染さん」のお祭り(大阪の夏祭りは「愛染さん」から始まります)も毎年楽しみにしていました。信繁の最期の場所だということは、丸島氏の同書で初めて知ったのですが、余計愛着を覚えます。
 「真田丸」展では、「越前兵若代彦左衛門・梶川助三郎首取状」が展示されていましたが、その図録に彼らは、「『真田のほり(堀)』、すなわち六連銭の旗印の付近で、豊臣方をは討った者」で、「越前兵と真田隊は激しく衝突していたので、若代らが討ったのは、真田隊の者である可能性もある」と記されています。
 「真田のほり」とありますが、16日に放送された「歴史秘話ヒストリア 緊急報告 『真田丸』を掘る」で、信繁ら豊臣方が陣を置いた茶臼山や岡山も一種の「真田丸」であり、茶臼山と岡山の間に巨大な空堀があった(古代の運河・河川の跡を空堀に造りかえたもの。尾張徳川家が伝えた『天王寺表合戦諸備之図』にもその堀が描かれていることも示されていました)という、千田嘉博氏の見解が取り上げられていました。「真田のほり」は、豊臣方と徳川方の間に堀があったことを示す記述だと思われます。

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