関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1802 下高大輔氏による佐和山城跡の現地見学会2 本丸の石垣・天守の位置の推定図

<<   作成日時 : 2016/12/22 11:58   >>

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写真は11日に行なわれた下高大輔氏の案内・説明による佐和山城下町跡、佐和山城跡、石田三成屋敷跡などをめぐる現地見学会のうち、山頂の様子を撮ったものです。向こうの見える盛り上がった部分が天守があったところではないかと、下高氏によって推定されていました。下高氏の推定は、天守だけではなく、本丸を囲む石垣、虎口があった場所にまで及びました。取り囲んでいる石垣の形は、現在発見されているわずかな石垣を線で結んで、CGでその姿が再現され、天守の位置と合わせて現地説明会のレジュメに掲載されていました。
 天守の位置は、山頂でその部分だけ盛り上がっているというだけではなく、そこから下に幅の広い道が続いており、それが登城道だと考えられるということも根拠に挙げられていました。推定された天守の位置は山頂の南の部分に当たります。
 虎口があったとされる場所も2箇所推定されていました。本丸付近の推定図が示されたのは初めてであり、画期的なことです。この推定図が正しいかは今後検討が続けられていくでしょうが、確定するのが難しいのは、石田三成の居城であった佐和山城は井伊家によって徹底的な破城が行われ、山頂も削り取られて本丸の様子もすっかりわからなくなっていることです。それに本丸の発掘調査は今後行われる予定はないということも下高氏はおっしゃっていましたが、そうなれば、余計に本丸の姿は藪の中ということになります。今後の調査の継続性が求められます。
 見学会の一行は、まず山頂から一旦下の段に降り、二つだけ残る隅石垣を見てぐるりと回り、南側から再び山頂に登り、本丸の推定地のところで、下高氏の詳しい説明を聴きました。
 天守については、三層だと説明されていましたが、後にできた彦根城も三層であり、下から見ても三層の天守でも十分だと説明されていました。五層の根拠は、西明寺に奉納されている佐和山城絵図に五層で描かれていることだけであり、後の時代(元禄期)に描かれたものであり、信憑性は薄いと説明されていました。私は後で、下高氏にその絵図は伏見城攻めの様子を描いたものだという見解があることを知っているかどうか質問しましたが、ご存知でした。もっとも、その見解が正しいかどうかはわからないとおっしゃっていましたが。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、井伊藩が聞き取り調査をした「『古城御山往昔咄聞書集』には、『五重ノ天守』と明記してあり、多分にこれが『佐和山城は五層の天守』の裏付けとなったのだろうと思われる」と記されています。もっとも、同書では、五層の天守ということについては否定的に捉えられているのですが。

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