関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大河ドラマ探訪467 「真田丸」134 九度山探訪2 真田庵・ 信繁は九度山で二男五女をもうける

<<   作成日時 : 2016/12/28 10:28   >>

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 写真は真田昌幸・信繁が関ヶ原の戦いの後、暮らしていた屋敷があった真田庵を26日に撮ったものです。賽銭箱に真田家の六連銭の家紋が付いています。奥に見えているのが、善名称院の本堂です。写真に向かって右側には、信繁が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったとの言い伝えがある「雷封じの井」、真田地主大権現を祀るお社が建っています。左側には昌幸の墓や史料館があります。私が訪ねた時には、何人がお参りしていました。
 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、信繁は九度山で「二男五女をもうけている」ことを明らかにされています。すなわち、大谷吉継の娘(竹林院)との間に慶長7年、嫡男大助が誕生し、次いで豊臣秀次の娘(隆清院)との間に慶長9年、五女の御田(おでん)が生まれ、竹林院との間に慶長17年、次男大八が誕生していること。この他に、「生年不詳だが、竹林院との間にもうけた六女阿菖蒲(おしょうぶ)・七女おかねも九度山で出生したとされ」、「八女・九女は生母不明だが、やはり九度山時代の出生」と記されています。
 また堀田作兵衛興重の妹との間に誕生した次女於市は九度山で死去していることも記されています。「真田丸」では、堀田作兵衛興重の妹は「梅」という名で登場していましたが、信繁との間に娘が生まれたものの、第一次上田合戦で亡くなっていました。しかし、実際には、その後も生き残り、於市を生んだわけです。
 「真田丸」では、秀次の娘は秀次事件後、ルソンに逃れ、その後九度山に姿を現していましたが、信繁との間に子ができたという描き方はされていませんでした。しかし、実際には九度山で御田が生まれ、その後、幸信という三男が生まれています。
 「真田丸」では、高梨内記の娘は「きり」という名で登場し、信繁に思いを燃やすものの、なかなか相手にしてもらえず、大坂夏の陣で初めて信繁とキスするという展開になっていましたが、実際は信繁の上田時代に三女阿梅と四女あぐりを生んでいます。「きり」は、九度山に来ていましたが、実際もそうだったことが丸島氏の同書で指摘されています。その根拠として、「内記自身が昌幸に供奉しているから」だという点が挙げられています。
 高梨内記の娘が生んだ阿梅は後に伊達家家老の片倉重長の継室となり、あぐりは後に蒲生忠郷の家臣の蒲生郷喜(さとよし)に嫁ぎました。「郷喜は、石田三成の重臣蒲生郷舎の兄にあたる」と記されていますが、この蒲生郷舎は織田有楽斎と戦って死んだ人物(横山喜内)とは別人です。
 要するに、信繁に付き添ってきと思われる女性は、竹林院、高梨内記の娘、隆清院、名前のわからない側室の四人だということになります。
 もっとも、「歴史人 真田幸村と大坂の陣」(KKベストセラーズ)に掲載されている「真田幸村略系図」には、丸島氏の同書に記載されている「真田信繫子女系図」とはかなり違ってたものになっていますが、この点については改めて述べます。 

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