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zoom RSS 石田三成の実像1787 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」9 大谷吉継の政治的役割

<<   作成日時 : 2016/12/05 10:14   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、大谷吉継の政治的役割について、考察されています。
 「大谷吉継が豊臣公儀(石田・毛利連合政権)の構成員であった一人であったことを明確に示している」ものとして、(慶長5年)7月20日付の松井康之宛大谷吉継書状と、7月30日付の真田昌幸・真田信繁宛大谷吉継書状が挙げられています。
 まず前者の書状ですが、「『(慶長5年)7月17日付松井康之宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状』の副状としての性格を持つものである」と指摘され、それは書状の中で「三奉行が出した『御ふれ折紙』(『(慶長5年)』7月17日付松井康之宛長束正家・増田長盛・前田玄以連署状を指す)と『内府ちかいの条数』(慶長5年7月17日付の『内府ちかひの条々』を指す)に触れていることからもわかる」と記されています。
 またこの書状で、「吉継が松井康之に対して上坂を命じたこと」も、吉継が石田・毛利連合政権の構成員であったことを示す根拠として挙げられています。
松井康之は細川忠興の領国であった豊後国の木付城の城代でした。
 後者の書状については、その中で「秀吉死去後の家康による仕置が秀吉の方針に反していたため、秀頼様のために三奉行・二大老と諸大名が『一統』としてまとまり、仕置をあらためた、としている」が、「家康を公儀から放逐したあと、二大老と三奉行が中心となり秀頼を直接推戴する新しい政権をつくったことを、真田昌幸・信繁に対して説明していることになる」と指摘されています。
 またこの書状からは、「真田昌幸・信繁に対して秀頼様を見捨てないように要請していること」、「真田昌幸・信繁から返信が来た時には、それを大谷吉継が三奉行に取り次ぐ役目をしていたこと」、「石田三成の居城がある佐和山から使者を下したことを述べており、大谷吉継が石田三成と連携していたこと」、「7月30日の時点で『天下泰平』の状態であったことをあらわしており」、「伏見城の落城がまもなくであることも合わせて考えると、上方を含めて西日本全体を豊臣公儀(石田・毛利連合政権)が掌握していたこと」がわかると記されています。
 さらに「8月に石田三成が奉行に正式に復帰するまで、7月中は大谷吉継が三奉行を補完する役割を果たしたと考えられる」と指摘されていますが、これは三成の居所に関しても重要な指摘がされていると思われます。すなわち、三成が佐和山で挙兵してからも大坂城へはしばらくは赴かず、「内府ちかひの条々」が出された時も大坂城にいなかったのではないかと。三成が大坂城に入ったのは、伏見城へ督戦に赴いた後の7月30日であったと私は考えています。

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