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zoom RSS 石田三成の実像1788 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」10 吉継の政治的役割2

<<   作成日時 : 2016/12/07 21:47   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、大谷吉継の政治的役割が論じられていますが、それに関して、水野伍貴氏と石畑匡基氏の見解が取り上げられています。
 まず水野氏については、「すでに慶長4年(1599)10月段階で大谷吉継が奉行衆に準ずる格で登用されていて、その後も中央政治で起こる重大事件には必ず登場し、奉行衆に準じた働きをしている」と記され、その出典は水野氏の「秀吉死後の権力闘争と会津征討」であることが註に掲載されています。
 石畑氏については、「すでに慶長4年の段階で吉継が五奉行の業務を分担しており、五奉行に準じた存在であったこと」や、「吉継が五奉行の面々と連署した事例は見当たらないが、これは、あくまで吉継が五奉行に準じた存在でしかなかったことを裏付けている」(石畑氏『秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰』)ことが取り上げられています。
 こういう見解も根拠に挙げて、白峰氏の同書には、「当該期(7月17日に『内府ちかひの条々』を出したあとの7月中)において、大谷吉継は政治的に重要な役割を担っていたことがわかる」と結論付けられています。
 敦賀市立博物館発行の図録「リニューアル記念特別展 大谷吉継 人とことば」に、白峰氏の同論考でも取り上げられている(慶長5年)7月30日付で真田昌幸・信繁に宛てた大谷吉継書状が掲載されています。
 その第一条には、「内府(徳川家康)の一昨年以来の執政は、太閤様(豊臣秀吉)の遺言に背き、秀頼様の自立に妨げとなっていましたので、年寄衆の(毛利)輝元・宇喜多秀家・嶋津(義弘)その外、関西の大名衆が一致してこれを改めることにしました」と現代語訳されています。
 また第四条には、「どちらに出陣されていようとも、これらの趣意をご理解いただき、秀頼様をご支援いただくことが大切です。しかし、おられる場所(家康の領国に近く)事情で、(家康を討つ計略に)態度を明らかにできないようでしたら、内心の決意を返事にお書きください。年寄衆にも披露できるよう調えてください。詳しくは年寄衆からの指示書が届く手はずになっています。まずはご返答をお待ちします」とあります。
 これらの文言からは、確かに吉継が石田・毛利連合政権において重要な役割を担っていたことがわかります。また昌幸がなかなか立場を明確にしなかったことも、この書状は物語っています。昌幸は返事を先延ばすことによって、戦いに勝った後の領土の恩賞を少しでも多くしようとしたことが、昌幸宛の三成書状からもわかります(三成は8月10日付の書状で、昌幸に信州だけでなく甲州までも仕置を任せると述べています)し、「真田丸」でもそのように描かれていたことは、拙ブログでも触れました。
 

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