関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1790 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」11 上杉氏も公儀の構成員 

<<   作成日時 : 2016/12/09 11:24   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、(慶長5年)9月3日付本庄繁長宛直江兼続書状のうち、「天下」や「御公儀」の文言が出ている最初の箇条が引用され、この書状やこれらの文言についての先行研究が紹介され、検討が加えられています。
 その結果、公儀=「豊臣政権」という高嶋弘志氏の見解、公儀=「秀頼政権」という高橋明氏の見解が妥当だという評価がされています。
 そして、この書状について、阿部哲人氏の見解を考慮して、「『御公儀』の構成員には、在国はしているものの五大老である上杉景勝も含まれると考えられ、東国に在国しているからこそ、伊達政宗、最上義光を含む奥羽の諸将を景勝の軍事指揮下に組み込んで統括し、豊臣公儀を体現する大老である景勝が軍事指揮権を発動して、豊臣公儀から排除されて豊臣秀頼の敵となった家康の本拠である関東へ出兵して家康を討伐することが正統な権限の行使である、という論理が読み取れる」と結論付けられています。
 このことに関連して、阿部氏の次のような見解が紹介されています。
 「上杉氏と伊達・最上両氏との交渉は9月3日に初めて確認できるが、これに先行して開始されていたことは間違いなく、また(上杉氏から伊達・最上両氏に対して)降伏を求める働きかけなどは8月中旬、遅くとも8月下旬ごろには積極的に行われていたとみられる」と。
 もっとも、時期的な面に関しては、「8月上旬から」行われていた可能性が白峰氏によって指摘されています。その根拠となるのは、8月4日付の松井康之宛長束正家・石田三成・増田長盛・前田玄以連署状の中の「伊達政宗・最上義光・佐竹義宣・岩城貞隆・相馬義胤・真田昌幸が上杉景勝と申し合わせて活気づいているので、関東(=家康)は取り乱している」との記述、8月10日付の佐竹義宣宛石田三成書状の中の「伊達政宗・最上義光・相馬義胤が上杉景勝と『入魂衆』である、という報告が石田三成のもとに度々来ているので、佐竹義宣に対しても上杉景勝と相談して、家康を討ち果たすべき、と指示している」との記述、8月15日付の島津忠恒ヵ宛毛利輝元書状の中の「毛利輝元のもとには佐竹義宣と最上義光が上杉景勝に味方するという報告が来ていたと考えられる」という内容などが挙げられています。
 むろん、書状の内容が事実とは限りませんし、実際、この後、上杉氏は最上領に侵攻していますが、上杉氏から伊達・最上両氏に対して降伏の働きかけがなされていたのは確かでしょうし、上杉氏があくまで石田・毛利連合政権側の立場に立っていることがわかります。

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