関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1822 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5

<<   作成日時 : 2017/01/17 11:52   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。
 『 家康が大坂城に入り三成を襲おうとしたため、「(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごしていた」三成は、「この窮地に追い込まれると、同僚の統治者たちの権力下に入った伏見の城に赴いた」と「1599年度日本年報派」に記されています。三成が伏見に移った理由について、白峰氏は、「通説では、豊臣家の武断派七将による大坂の石田三成邸襲撃のため、としている」と指摘され、われわれの認識もそうです。なお、三成邸は大坂城の北東の備前島にあり、確かに「城から遠くない邸」でした。
 伏見に赴いた三成に対して、「(小西)アゴスチイノは、以前受けた太閤様の恩義を裏切らぬように彼の後について行くことを決めた。なぜなら(小西)アゴスチイノは、そのために死を覚悟せねばならぬとしても、汚名の印しなしに己が友(石田)治部少輔のもとを去ることはできまいと判断したからである。とりわけこの派は、太閤様が制定した統治の秩序が、取り繕われた所として存続するために活動していると考えられていたからである」と。
 この後半の記述について、白峰氏は「石田三成・小西行長派の政治的スタンスが明確にわかる点で重要であり、石田三成・小西行長の派は、秀頼を主君とする豊臣体制の堅持を目的として結束し活動している、という意味と思われる」と指摘されています。
 逆に家康は豊臣体制の堅持を目的としていなかったというふうに取れますが、この時点では、家康はあくまで豊臣政権の大老として動いていました。もっとも、三成たちは家康がしていることを見て、このままでは豊臣体制の堅持は難しいという危機感を持っており、宣教師たちもそう認識していたことがわかります。小西行長の動きを記しているのは、彼がキリシタン大名であったからで、宣教師は行長らキリシタン大名を通じて情報を手に入れていたのでしょう。
 ところで、三成も伏見城の治部少輔丸にこもって、反撃を試みていたことが光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で明らかにされています。増田長盛などが大坂城を抑えて、秀頼を奉じ、西国の諸大名を結集して、尼崎に陣を張っている毛利輝元と共に家康を挟撃しようとするものだったと。しかし、前述したように、大坂城は徳川方の小出秀政や片桐且元に奪われてしまいましたし、上杉景勝も大谷吉継も軍事闘争を断念してしまったために、三成は反撃できませんでした。
 

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