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zoom RSS 石田三成の実像1828 中野等氏「石田三成伝」6 天正12年の事績・13年の紀州攻め・諸大夫成り

<<   作成日時 : 2017/01/23 10:55   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正12年の三成について、「小牧の陣の前半は、秀吉の陣中に近侍していたようだ」が、「10月の後半以降は、秀吉自身が北伊勢の各地を移動しており、三成は必ずしも行動を共にしていたわけではなさそうである」と指摘されています。
 その根拠として、11月27日の「江州蒲生郡今在家村検地帳」に「石田左吉」の署名が残っていることが挙げられており、「この段階の三成としては、みずから検地の場で指揮をとった可能性が高い」と記されています。「この段階」とことわっているのは、後年の島津領検地や佐竹領検地には三成自身は現地には行かず、家臣を派遣していると指摘しているからです。
 天正13年の雑賀攻めに従ったことは、「宇野主水日記」の3月25日の記述からわかり、4月25日の紀州太田城開城の折も、同史料から太田の秀吉の陣所にあったことがわかると記されています。太田城の遺構については、昨年1月に訪ね、その時の拙ブログ記事で取り上げました。
 この紀州攻めの時の木食応其(もくじきおうご)の活躍及び、三成との関わりについては、中野氏の同書に次のように記されています。
 「高野山の木食応其は、根来寺や金剛峰寺(高野山)と秀吉との間の和睦斡旋につとめており、高野山も応其を通じて秀吉に降伏を申し出る。木食応其は近江国の出身とされており、こののち三成とも親しく交わっていくことになる」と。
 木食応其上人と三成の親しい関係については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」の章でも、具体的に書いています。
 その後の四国攻めについては、中野氏の同書には、「秀吉自身が四国渡海をしなかったことから、側近の三成らも四国に渡らなかったものと考えられる」と指摘されています。このことは逆に、この時期の三成について、その居所を示す史料は今のところ残っていないということになります。
 この後、秀吉が従一位関白に任じられたのに伴い、三成は従五位下治部少輔に叙任されるわけですが、その時期については、確実な史料はこれも今のところ見つかっていないことも指摘されています。ただ「四位や五位に叙位とされた者の記録である『歴名土代』には『石田治部少輔 藤三成 同(天正)十三・七・十三』とあ」ることが記されています。7月13日に「諸大夫成り」(従五位下への叙位)になったのが確実なのは福島正則などだけであるものの、三成も他の面々と同様、同日に「諸大夫成り」を果たしたと推定されています。

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