関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1831 曳山祭りと羽柴秀勝の墓・ 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」1

<<   作成日時 : 2017/01/25 18:56   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は22日、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」が行われた長浜の曳山博物館(講義は伝承スタジオにおいてでした)の看板を撮ったものです。
 講義の後、太田浩司氏による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会がありました。これは連続講座「近江の城郭」の第4回の催しで、前回は昨年12月に行なわれた鳥居本公民館での講義と「佐和山城跡」の現地見学会でしたが、これについては拙ブログ記事で内容を取り上げました。
 長浜に城を築き町を作ったのは秀吉ですが、「長浜曳山祭り」は秀吉の男子(秀勝)誕生の祝い金(砂金)で始まったと言われており、昨年ユネスコ世界文化遺産に登録されました。町にはそれを祝う垂れ幕や幟がたくさん建っていました。
 現地見学は、曳山博物館の広場で説明を受けた後、その南にある秀勝の墓がある妙法寺にお参りしました。廟は普段閉ざされていますが、住職さんに扉を開けてもらいました。もっとも、秀勝が秀吉の子であるかどうかについては、研究者の間で見解が分かれていますし、太田氏も偉い人の墓であることは確かであるものの、秀吉の子だとは断定できないとおっしゃっていました。もっとも、寺伝では、秀吉の子だと記されているそうですが。
 秀吉が信長から長浜を拝領したのは天正元年ですが、築城を開始したのは、翌年からです。三成が秀吉に仕官したのは15歳の時あるいは18歳の時だと言われていますが、15歳の時であれば、長浜が築城されたのと同時期です。具体的に三成の屋敷があったのはどこなのかについては、わかっていませんが、家臣団があったとされる場所については、後の太田氏による現地見学会の時に示されていました。また大通寺の門前通りが石田町と呼ばれていたので、そこに三成屋敷があったという説があることも紹介されていましたが、太田氏は懐疑的でした。
  さて、松下氏による講義ですが、「信長と近江」について、永禄11年(1568)9月、信長が足利義昭を伴って上洛した際、近江を通過しますが、近江北部の浅井氏とは友好関係を築いたのに対して、南部の六角氏は提携を拒否するものの、信長が観音寺城を攻撃しようとした時退城します。
 この時期の信長の近江掌握構想としては、京都・岐阜間の通路を確保する上で不可欠であることから、浅井氏による近江支配を容認するというものであり、現秩序を維持するものだったと説明されていました。しかし、六角氏が提携を拒否したことから、六角氏の旧支配域を信長配下の武将に支配させました(具体的には柴田勝家・佐久間信盛を湖東・湖南に配置し、支配させました)が、信長に従う近江の在地領主については安堵し、信長配下の武将の与力にしたと述べられていました。「与力」とは自立した領主であり、蒲生氏などの例が挙げられていました。蒲生氏は六角と国人の間を仲裁し、信長に従ったと。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1831 曳山祭りと羽柴秀勝の墓・ 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」1  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる