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zoom RSS 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」2 元亀騒乱を経て近江支配へ、小牧・長久手合戦が画期

<<   作成日時 : 2017/01/26 18:13   >>

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  22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、信長と近江との関係は、「元亀騒乱」によって大きく変わり、信長の近江掌握構想は破綻したと説明されていました。その発端は、元亀元年(1570)4月、浅井氏が離反したことであり、その理由について、浅井氏が信長に支配されることを危惧したことが挙げられていました。ついで同年9月には、大坂本願寺の檄文が発せられ、六角氏によって一向一揆を扇動し、同年12月の志賀の陣で、信長は浅井・朝倉に与した延暦寺と対立し、それが翌年9月の延暦寺焼き討ちにつながります。翌元亀3年7月には、湖南の一向一揆が鎮圧され、金森・三宅は開城しますが、長島一揆の時などとは違って、この時点では「根切」などという皆殺し作戦は行っていないと指摘されていました。
 翌元亀4年7月に足利義昭が追放され、天正元年(1573)9月に浅井氏の小谷城が落城し、六角氏の最後の拠点であった鯰江城が開城し、「元亀騒乱」は終焉を迎えます。
 なお、信長の妹のお市が浅井長政に嫁いだ時期について、永録4・5年説があることも紹介されていました。このことについて、福田千鶴氏の「江の生涯」(中公新書)には、お市が嫁いだのは永禄11年頃とされるが、太田浩司氏は永禄4年結婚説を唱えていることが記されています。
 ついで「信長の近江支配」の時期になり、信長は湖岸の要所に築城しますが、具体的には元亀2年、坂本に明智光秀を、天正元年、長浜に羽柴秀吉を、天正4年、安土に信長自身を、天正6年、大溝に織田信澄を配置します。これらの城の配置を、中井均氏が「城郭ネットワーク」と名付けていることも紹介されていました。
 信長は「家臣を広域を支配する上級領主とし、在地領主たちをそのもとに付属させ」、「中世近江の在地秩序を基本的には維持」し、「在地領主制・座商業の存続」をはかったと説明されていました。
 「座商業の存続」という点では、信長の「楽市楽座」も安土・金森に限定されたものであったと説明されていました。信長としては、天下人として近江をどう支配してゆくのかということであったと述べられていました。
 一方、秀吉の近江支配については、天正10年の清須会議、天正11年の賤ヶ岳合戦後に秀吉は国割を実施し、旧信長直臣を近江国内にそのまま配置し、信長時代の拠点城郭を存続させたと説明されていました。
 しかし、小牧・長久手の合戦が画期となり、天正13年の国割では、旧信長直臣を近江国外へ移封し(具体的には堀秀政を越前北の庄に、蒲生氏を伊勢松坂に移封したことが挙げられていました)、信長時代の拠点城郭を廃し(具体的には安土城が廃城となったことが挙げられていました)、新たな拠点城郭を築城・整備した(具体的には長浜城・佐和山城・八幡城・水口岡山城・大津城が挙げられていました)と述べられていました。
 これらの国割は、「東海の徳川を意識した配置」であり、「東方に対する抑え」を目論んだものであり、「若狭湾ー近江ー伊勢湾を結ぶ防衛線」を確立し、これによって「近江の豊臣化が確立」したと指摘されていました。
 
 

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