関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1835 須藤通光書状2 文禄5年のものか・惣構普請 

<<   作成日時 : 2017/01/30 10:24   >>

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 三成が長浜町に人夫調達を命じた須藤通光書状ですが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)には、この書状について解説が加えられ、追而書(おってがき)に記されていることについて次のように記されています。
 「長浜町は秀吉の城主時代から、諸役免除の特権を得ていたので、三成の人夫徴用を不当だと考えた町民らが、伏見の秀吉に訴えたのである。これを聞いた三成は、秀吉に直訴され面目を失ったと立腹してしまった」、「この後の顛末はわからない」と。
 またこの書状が記された時期については、「中井均氏が述べるように、文禄4年(1595)7月に北近江全域が三成領になった直後と考えるのが妥当であろう。とすれば、文禄5年(1596)2月16日の書状となる」と指摘され、「壮大な佐和山城の『惣構(外堀の内側)』は、北近江の民衆の助力によって完成したのであった」と記されています。
 書状の冒頭の「四郡」について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「課役の対象となっていることから推して、この『四郡』が、三成の領知と見なされる。『四郡』とは、佐和山城を擁する『犬上郡』、長浜町の位置する『坂田郡』のほか、後述する『条々』の分布から判断して『浅井郡』と『伊香郡』が想定されよう。ただし、それぞれの郡が一円的に石田領であったかどうかは定かではない」と指摘されています。
 ここで「条々」とあるのは、文禄5年3月1日付で、三成が領内の村々に発した「掟書」のことです。
 須藤通光については、中野氏の同書には、「主君三成に代わって美濃国神戸の支配を委ねられた人物であった。須藤は美濃時代に引き続いて領国支配を代行したのであろう」と記されています。
 三成は領知の「四郡」に公平に夫役を課そうとしたために、長浜にも平等に夫役を命じたものだと思われます。秀吉が長浜を特別扱いしていたことを知りつつ、公平性を保つために敢えて断行したのでしょう。三成が直訴に対して怒ったのは、領主の自分を飛び越して秀吉に訴えたためかもしれません。
 佐和山城の惣構については、太田氏の同書の中で、中井均氏がこの時期に佐和山城の大手が東麓から西麓に付け替えられ、そのことも惣構普請の一環だとする説が唱えられているものの、太田氏は大手はずっと東麓のままだったという見解を示されています。その根拠として、西麓には城下町を作る敷地的な余裕はないからだとする点が挙げられ、西麓への大手の付け替えは、三成の後佐和山に入った井伊時代の臨時的なものだったと主張されています。

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