関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1811 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」1

<<   作成日時 : 2017/01/06 09:44   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」を精緻に分析して、関ヶ原前後の状況に対して考察が加えられています。その論考を拝読してまず思うことは、外国人宣教師の報告書とは云え、日本の当時の状況をかなり的確に捉えており、史料として重要だということを改めて認識したことです。むろん、日本側の史料とのすり合わせが必要であり、全部を鵜呑みにはできませんが。それはちょうど、朝鮮の役の際、捕らわれの身となり日本に連れてこられたカンハンが日本のことを見聞きして記した「看羊録」が、史料として重要だというのと同じです。
 全部を鵜呑みにできないという点については、たとえばルイス・フロイスの「日本史」がそうであり、この書を読んだ時はキリシタン大名のことはよく描かれているのに対して、異教徒の三成のこと(三成に限らず、異教徒の人々の扱いはほとんどがそうてす)は反対に悪く描かれていることに、問題を感じ、史料的にはその点は割り引いてみないといけないという思いを持ったものでした。
 そういう先入観があった上で、白峰氏の同論考を読んだのですが、フロイスの「日本史」とはまた違った印象を受け、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」も史料としてしっかり読まねばならないという思いを強くしました。
 まず、死ぬ直前の秀吉が、「自分(亡き)後、六歳になる息子(秀頼)を王国の後継者として残す(方法)について考えを纏めあげた。(中略)(徳川)家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えば、それができる人物人物であることに思いを致し、この大名(家康)に非常な好意を示して、自分と固い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれぬようにした」と記されています。
 具体的には秀吉は重立った諸侯の前で、家康に対して、「予は息子とともに日本全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している」と言ったと記されています。
 また他の記述から、「秀吉は、秀頼後継体制への布石として、それまでの四奉行に浅野長政を加えて五奉行の筆頭とし、五奉行が家康を目上にして、しかるべき時期になれば秀頼が『日本の国王』に就任できるように命じたことがわかる」と白峰氏の同論考で指摘されています。
 実際に秀吉が家康にそのようなことを言ったかどうかは確認できませんが、秀吉が秀頼のことを家康をはじめとする五大老や五奉行に頼んだことは、秀吉の書状に記されています。

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