関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1812 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」2

<<   作成日時 : 2017/01/07 10:22   >>

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白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政が対立したという記述があることが記されています。
 すなわち、「当初は石田三成と浅野長政は表面上は友好関係(『外見上の友情』)を保っていたが、『憎悪を爆発』させて激しい対立状態になったことがわかる」と記され、「1599年度日本年報」には具体的に次のように記されています。
 「朝鮮において(小西)オゴスチイノ(行長)に従っていた人々は、新たな盟約によって(石田)治部少輔(三成)と同盟した。これに対して他の派についていた人々は、浅野弾正(長政)の側に合流した。(中略) (小西)オゴスチイノ(行長)の側には(石田)治部少輔(三成)と、彼自身のすべての家臣や友人たち、有馬と大村の国主たちとその家臣と友人たち、薩摩の王(島津義弘)、柳川殿と筑後の他の諸侯であり、彼らの中には我らの味方(小早川)藤四郎(秀包)殿、それに長崎奉行で他の地の領主である寺沢(広高)殿が挙げられる。これらの人々の敵側は、大いなる権勢をもっており、浅野弾正(長政)、(加藤)主計(清正)殿(中略)、(黒田)甲斐守(長政)、豊前の国の国主(黒田孝高)、市正(片桐且元?)、それに肥前の国主鍋島(勝茂)がいた」などと。
 これらのことから、白峰氏の同論考では、「慶長4年の権力闘争の発端は豊臣政権中枢における五奉行の内部における有力者同士【石田三成と浅野長政】の過激な対立が始まりであった、ということになり、この点【石田三成と浅野長政の対立】は日本側の史料には記載されていない点なので重要である」と指摘されています。
 実際に三成と長政の対立があったのかどうかということは、今のところ日本側の史料にはないので、今後の史料の発掘が待たれます。
 もっとも、水野伍貴氏の見解によれば、秀吉死後の勢力について、石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以と毛利輝元の連合派、徳川家康派(細川忠興・長宗我部元親・島津義久らとの結びつき、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政・加藤清正・黒田長政らとの政略結婚によるもの、前田利家派(縁戚・友好関係に基づくもので、宇喜多秀家・細川忠興・浅野長政、幸長・加藤清正ら諸大名が属します)に分かれていたとあるので、前田派の浅野長政と三成とは異なる勢力に属しており、二人の間に対立があったと考えられなくもありません。家康と伊達政宗の政略結婚が問題化された時、毛利・四奉行連合と前田派と上杉景勝が結びついて、家康派と対立しますが、家康と四大老五奉行の間で誓紙を交換し、前田利家が伏見の徳川邸を訪問するに及んで、前田派と家康が和解したと、水野氏の講演会で説明されていました。
 

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