関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1814 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」4

<<   作成日時 : 2017/01/09 10:12   >>

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  白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、「(徳川)家康その他の大名たちは、皆が敵対心を捨てて固い友情が結ばれるように何も試みないわけではなかった」と記され、「石田三成と浅野長政の対立が起こった時点では、外様的立場の家康は関与していなかった」と指摘されています。
 三成と浅野長政の対立があったことについては、日本側の史料では今のところ確認できませんから、家康がその対立に関与していなかったという点についても確かめられませんが、興味深い記述ではあります。拙ブログでも述べているように、秀吉死後に三成派、前田派、家康派の対立があったとする水野伍貴氏の見解が正しいとすれば、長政は前田派に属していましたから、三成との対立があった可能性はなくはありません。カンハンの「看羊録」に、前田利長に謀反の疑いがあることを家康に知らせてきたのは、三成(当時、三成は佐和山に引退していました)という記述がありますが、それは事実ではないにせよ、三成派と前田派との対立が生んだ噂と考えれば、納得できる面があります。
 三成ら五奉行と利家ら四大老が、家康が秀吉の遺命に反して諸大名と婚姻を結ぼうとしたことに対して、慶長4年1月に、詰問の使者を送りますが、「1599年度日本年報」に記されている、三成が家康に浴びせた非難の内容、及びその後に取った行動について、白峰氏の同論考に次のように紹介されています。
 すなわち、家康が「国家の統治にあたってひどく権力をわがものにしており、また天下の支配権を獲得する魂胆の明白な兆候を示していると。そこで、(石田)治部少輔は武器を取り、他の統治者たちの意見に従って、使者たちを(徳川)家康のもとへ遣わし、予のことで何が気に入らぬのか公然と詰問させた」などと。
 こういう記述から、「慶長4年のこの時点では家康と石田三成が対等の関係にあったことがわかるとともに、この時点で家康が石田三成の対立軸として出てくることに注意したい。また、この時点では、家康を除く四大老・五奉行(『他の統治者たち』)は石田三成のサイドに立っている点に注意したい」と指摘されています。
 当時の状況を、イエズス会宣教師たちが的確につかんでいたことがわかりますし、家康も「己が諸国から三万の軍勢を招集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた」という記載からは、「関ヶ原の戦いにおける家康の領国からの最大兵力数を考慮する上で重要である」と白峰氏は指摘されています。 
  
 
 

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