関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1837 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」8

<<   作成日時 : 2017/02/01 18:44   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられています。
 すなわち、「(上杉)景勝は、三年間は領内に留まってもよいとの太閤様の許可を得ていると弁解し、政庁へは赴くまいとの決意を固めた。この領主は、(石田)治部少輔のごく親しい友人であるが、内府様とは不仲であったので、内府様はその決意をきわめて遺憾に思った。(上杉)景勝宛に、貴殿がただちに上洛しないなら、自ら出陣し、貴殿を反徒として懲罰するであろう、との伝言を送った。ところが、この景勝はきわめて勇敢な武将で、(石田)治部少輔や(前田)肥前殿、その他内府様に良からざる領主たちと密かに気脈を通じ連携を保っていたので、内密に、これ以上はありえぬほど巧妙な策略[日本ではこれを武略と呼ぶ]をめぐらした。その策略として、景勝が書状で内府様など物の数ではないとの態度を示して内府様を挑発し始めた。そこで内府様は、自ら(上杉)景勝討伐に赴かざるを得なくさせた」「内府様は急いでいたし、全員がただちに後続するものと考えていたので、自信をもって全兵力を率いて関東に向かった」などと。
 これらの記述から、白峰氏の同論考では、「上杉景勝が石田三成の『ごく親しい友人』であった点と」、「上杉景勝と石田三成は共にこの反家康の秘密同盟の首謀者であった点を考慮すると、石田三成と上杉景勝の事前盟約は存在した可能性が高いことになる」と指摘されています。
 両者の事前密約については、あったかなかったかと昔から論争が絶えませんが、イエズス会側としては、事前密約があったというふうな捉え方をしているわけです。
 また上述の記述から、「家康が自信満々に上杉討伐に向かったことを示しているが、このことは同時に、反家康の同盟が準備した『これ以上はありえぬほど巧妙な策略』に対して家康が全く気付いていないことも示していた」と白峰氏の同論考には記されています。
 実際、景勝と三成の事前密約があったかどうかはわからないものの、家康がそれに気づいていなかったという記述は重要ではないかと思われます。引退後の三成が、家康寄りの姿勢を示し、家康が前田攻めをしようとしていた時に三成も家康の意向に沿って出兵したということでもわかるように、家康はまさか上杉攻めの時に三成が挙兵するとは思っていなかったのではないでしょうか。家康は有力大名を一つずつ屈服させてゆこうとする個別撃破の作戦を採っていたというのは中井俊一郎氏の見解ですが、それを裏付けるようなイエズス会側の史料です。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1837 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」8 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる