関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1852 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割2

<<   作成日時 : 2017/02/17 11:19   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、九州攻めの際の「秀吉の行軍はきわめて悠然としたものであった」と記され、その理由として「西下にことよせて主不在の宇喜多領および毛利領を親しく監察し、とりわけ毛利家に対しては圧力をかけておく必要があったからであろう」と指摘されています。
 その途中、厳島社に参詣していますが、このことについて、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、3月「17日廿日市着(『九州御動座記』『同国廿日市迄、但中一日有御逗留、厳島へ被成御参詣』)」と。
 石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)には、厳島社内で開いた和歌の会で秀吉と三成が詠んだ和歌が紹介されています。
 「秀吉が、
 ききしにより眺めにあかね厳島見せばやと思う雲の上人
 と歌うと、三成は、
 春ごとの頃しもたえぬ山桜よも霧島の心ちこそすれ
 と唱和した」と。出典は「芸藩通志」「豊公歌集」です。
 藤井氏の同書には、秀吉のこの後の行程が詳しく記されていますが、九州に入った日について、3月「28日豊前小倉着」とあります。石田氏の同書には、「秀吉は、小倉において島津討伐のための進撃の部署を定め、羽柴秀長、宇喜多秀家らをして、豊後から日向へ、自分は筑前、肥後へと、東西の二道に分けて討ち入ることにした」と記されています。
 藤井氏の同書には、4月「11日肥後南関着」とあるのをはじめ、肥後の国中を進んでいますが、「19日八代着」と記されています。
 この後の三成の行動について、中野氏の同書には次のように記されています。
 「三成は翌20日付で、肥後国玉名郡の願行(がんぎょう)寺に禁制を発している(『願行寺文書』)。さらに、三成は4月23日付で大谷吉継・安国寺恵瓊と連署状を発して、博多商人の還住をすすめる(『原文書』)。いずれも陣中から遠隔地への指示であり、三成は秀吉の帷幄【いあく】(本陣)にあって、その命を具体的に遂行していったものであろう」と。
 このあたりの時期も、三成は秀吉に近侍していることがわかります。「博多商人の還住」は、博多復興のためであり、三成が力を貸していたことがうかがえます。
 

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