関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1857 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14

<<   作成日時 : 2017/02/25 22:04   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。
 すなわち、「奉行側に味方していた者たちは、都へ通じるすべての街道を封鎖することを考え、こうすることによって軍勢を率いて都へ帰ろうとする敵の望みを奪おうとした。彼らはこの計画を実行するために、伊勢と美濃の国に己が最大の軍勢を集結させた」という記述について、白峰氏の同論考で、「石田・毛利方では西上してくる家康方の軍勢との対戦が最も重要と認識していたのであろう」と考察されています。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、真田昌幸宛三成書状から、三成が当初、尾張と三河の国境あたりで決戦するという戦略を立てていたことがわかると記しました。
 また尾張国「には日本国全土でもっとも立派な城郭の一つがあり、彼らはその領国を掌中に収める目的であった」という、「1600年日本年報補遺」の記述については、白峰氏の同論考で、「福島正則の居城である清須城(尾張)を指すと考えられ、石田・毛利方では清須城の奪取を狙っていたことがわかる。この点は上述したように、尾張国内での激戦が予想されていたこととも符合する」と解説されています。
 三成が、清須城に使者を派遣して清須城を明け渡すよう要請したことが、やはり昌幸宛書状によってわかりますが、清須城側に拒否され、結局正則をはじめ家康方の軍勢が清須城に入り、その軍勢が岐阜城を落城させることにつながります。三成方にとっては大きな誤算だったわけですが、三成は正則なら秀頼のために味方についてくるのではないかと期待していたのではないかと思われます。三成と正則の仲が悪かったという従来からの見方は改めて検討し直す必要があるように感じます。
 さらに「(石田)治部少輔が六、七千の軍勢を率いて、同国(美濃国)の中に毎時大勢を待機させておいて、伊勢と美濃の国からはいれる尾張のその地域へ侵入できるようにしていた」という、「1600年日本年報補遺」の記述については、白峰氏の同論考で、「石田三成の軍勢が6000〜7000という点は、上述した石田三成の人数書立てにおいて石田三成の軍勢の人数を6700人としている点と近似する」と指摘されています。
 この「人数書立て」は「真田家文書」に残るもので、8月5日頃の時点で三成が昌幸に送っています。

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