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zoom RSS 石田三成の実像1859  中野等氏「石田三成伝」16 九州攻めの際の役割6 博多の町割奉行

<<   作成日時 : 2017/02/28 21:37   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が博多町割り奉行を務めたことについて、疑義が呈せられています。
 すなわち、「博多復興を期した町割り奉行として、長束正家・小西行長・滝川雄利・山崎片家らの名が確認されるものの、三成の関与については必ずしも明確ではない」と。
 三成が博多の町割奉行を務めたということについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。
 「秀吉は三成にその博多の復興を命じている。この時の町割奉行は、三成を筆頭に長束正家・小西行長・滝川雄利・山崎片家等である。三成は、十町四方を境界として、縦横碁盤状に街路を区画し、離散した町民を呼び集め、資金を貸し与えて店を開かせ、楽市と定めて商売を奨励し、これより博多の町は日々繁栄し、今日に至ったと伝えられている」と。
 また石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)の中でも、博多の復興奉行を務めたことが記されており、同様の内容が書かれているのみならず、より具体的なことも述べられています。
 すなわち、「(前略)6月12日から整備に取りかかった。
 さらに、三成は離散した町民の帰住を計るため、商人の座(特定の商品の販売・製造の独占権を持った組合)を一切禁止し、誰にでも自由に営業できる町とし、地子(土地の年貢)や諸役も免除し、徳政は適用外として、大幅な優遇策をとった。そして、武士の家臣といえども、町中に家を持つことを禁じて、純粋の町人だけの町として復興した(後略)」などと。
 中野氏が指摘されているように、三成の名前は直接、書状や史料などに残っていないのかもしれませんが、三成が博多の復興に関わっていたのは確実性が高いのではないでしょうか。中野氏の同書でも、三成が博多への還住をすすめる連署状を出したことが記されていますから、関与はしていたはずです。拙ブログでも触れたことがあります(2014年10月27日付)が、「歴史秘話ヒストリア 君よ、さらば!〜官兵衛VS三成 それぞれの戦国乱世〜」の最後に、今も毎年行われる博多祇園山笠の際、飾り山笠の「太閤博多の町割」の中心に秀吉がおり、町衆に混じって官兵衛と三成の姿があることが取り上げられていました。この点について、番組では戦乱で荒れ果てていた博多の復興を秀吉に命じられたのが官兵衛と三成であり、官兵衛は町の区画を定め、商人たちを呼び寄せ、三成は道路の整備や埋め立てを進め、二人がタッグを組むことで博多の輝きを取り戻したと説明されていました。
 今後の課題として、三成が博多の町割奉行を務めたという確かな史料の発掘が望まれます。

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