関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1839 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」10

<<   作成日時 : 2017/02/03 18:52   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。
 家康が上杉攻めに向かう時「幾人かの奉行は内府様に従ったが、その歩みは緩慢であった。その一人は(石田)治部少輔の城を通過する時に彼と連絡をとり、かねて仕組んでおいた計略を明らかにしようと決意した。そこで後からやって来た者たちと談合し、全員大坂へ帰ることで一致しすぐに行動した。このようにして、たちまち両者の関係は決裂して、日本のほとんどすべての諸侯の間に、内府様に背反する同盟が結成された。重立った奉行、および大坂にいた三名の奉行も彼らと合流し、彼らと一致団結し、内府様に敵対する立場を明らかにして内府様を政治から放逐した」と。
 文中の「『重立った奉行』とは毛利輝元と宇喜多秀家の二大老を指し、『大坂にいた三名の奉行』とは増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行を指すと考えられる」と白峰氏の同論考で指摘されています。
 しかし、「幾人かの奉行は内府に従ったが、歩みは緩慢であった。その一人は」云々という奉行は誰であるかが問題です。
 毛利輝元については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「輝元自身は、家康の出陣前に大坂を離れ広島に帰還しており、東征する毛利勢は安国寺恵瓊と吉川広家が率いることになった」と記されており、輝元自身が上杉攻めに向かったわけではありません。
 しかし、安国寺恵瓊は三成と7月12日に佐和山で密議をしていますので、毛利氏と三成は水面下で反家康の行動決起の準備をしていたものと思われます。
 一方、宇喜多秀家については、大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)の中で、7月2日に大坂に着き、7月5日に豊国社に参拝しているが、それは家康討伐のためだとする白川亨氏の見解を否定し、上杉攻めの戦勝祈願を祈ったものだったと指摘され、7月12日以降15日までに三成らの決起に加わったものと推定されています。こういうことからすれば、宇喜多秀家はあらかじめ三成が挙兵することを知らず、反家康の計略に加わっていなかったということになります。
 結論的に云えば、「その一人」云々の奉行は存在しないことになりますが、三成が毛利家の人々などと家康に対して決起するという動きがあったというふうに、イエズス会側は捉えていたものと思われます。 

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