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zoom RSS 石田三成の実像1866  中野等氏「石田三成伝」19 肥後一揆・古渓宗陳配流事件

<<   作成日時 : 2017/03/10 10:29   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正15年(1587)8月に佐々成政が支配する肥後で起こった一揆に際して、三成が取次として島津氏との折衝に当たったことが記されています。細川幽斎も三成と同じく島津氏の取次です。
 「秀吉は、島津家重臣の伊集院幸侃(実名は『忠棟』)を薩摩に下して、島津家の対応を指示する」が、「三成の名は一揆鎮圧を命じる秀吉の朱印状に見える」とあり、「(三成)自身としても10月21日付で、細川幽斎との連署状を新納忠元充てに発し、油断なく幸侃の指示に従うべきことを告げている」と。
 この一揆は、年末に収まりますが、佐々成政は翌年に一揆の責任を秀吉に問われて切腹させられます。一揆の直接のきっかけは、検地を行なおうとしたからでした。
 「秀吉は天正16年(1588)2月11日付の島津義弘・北郷時久らに充てた朱印状で、肥後境からの撤退を許可する。三成は、それぞれの朱印状の書き留めに『猶、石田治部少輔可申(もうすべく)候也』として登場しており、実務を管掌したものと判断される」と中野氏の同書に記されています。典拠は「薩藩旧記雑録後編」です。
 また「これからしばらくして、大徳寺の古渓宗陳(こけいそうちん)が筑前に配流される。これに三成が関与したとする史料(『古渓行状』など)もあるが、詳細は不明である」とも記されています。
 古渓宗陳配流事件に、三成が関与したとの説は、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で否定されています。三成が参禅の師とした春屋宗園と、利休が帰依した古渓宗陳は、共に大徳寺の北派に属する笑嶺宗訴の弟子でした。三成が古渓宗陳のことを讒言したとするのは、利休のことを讒言したと捉える見方につながるもので、三成と大徳寺との関係からしても考えられないことです。
 配流される古渓宗陳の送別の茶会が天正16年9月4日に聚楽第の利休屋敷で行われ、春屋宗園も客として招かれていること、宗陳が許され帰洛したのを祝う茶会が天正18年9月14日に同じ利休屋敷で行なわれ、やはり宗園も呼ばれていることが、白川氏の同書に記されています。
宗陳が配流になった経緯についても、白川氏の同書に次のように記されています。
 「事の発端は天正12年10月、秀吉が正親町天皇のために天正寺の創建に着手し、古渓を開山に迎えようとしていた。しかし、秀吉は天正14年には東山大仏殿の造営に着手し、同16年には生母・大政所のために天瑞寺を創建するなど、天正寺を顧みようとしなかったため、古渓宗陳と衝突し、天瑞寺落慶供養直後、(天正16年9月)筑紫・博多に配流され、大同庵に謫居している」と。
 
 

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