関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1873 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」9 松下浩氏の報告4 軽視できない秀頼

<<   作成日時 : 2017/03/17 11:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、家康、秀頼、秀忠の昇進レースについても説明されていました。三人の序列がレジュメに表にして掲載されていましたが、関ヶ原合戦が行われた慶長5年(1600)の時点で、家康は正二位内大臣、秀頼は従二位権中納言、秀忠は従三位前権中納言であり、慶長8年になると家康は従一位右大臣、秀頼は正二位内大臣、秀忠は従三位権大納言に昇進し、慶長16年になると、家康は従一位前右大臣、秀頼は正二位前右大臣、秀忠は従二位前内大臣になっています。
 家康にとって秀頼は軽視できない障害であったと講演会ではまとめられていました。それが結果的に家康は大坂の陣を引き起こし、豊臣氏を滅亡させることにつながりました。
 秀頼の右大臣辞任は慶長12年1月11日であり、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川弘文館)には、「翌13年には秀頼を左大臣に任官する動きが朝廷にあったが、実現には至らなかった」と記されています。
 家康が「秀頼の関白就任を阻止する行動に出」たことが、福田氏の同書に記されています。すなわち、「慶長5年12月20日に、前関白九条兼孝に関白宣下があった」とあり、「梵舜記」に、「九条兼孝への関白宣下は、武家から摂家による申沙汰であった」との記述があることが紹介されています。慶長9年「11月10日に九条兼孝が辞退すると、新就任者はなかった」こと、翌年「7月23日には近衛信尹(のぶただ)が関白に就任し、以後、慶長20年まで鷹司信房→九条忠英→鷹司信尚(のぶなお)と続き、関白が空席となることはなかった」ことなども記されています。 
 秀頼の関白就任はことごとく阻止されたわけです。
 松下氏の報告では、関ヶ原合戦後の近江に関する西軍所領の没収と徳川系大名の配置についても説明されていました。
 西軍については、石田三成(佐和山19万石)と長束正家(水口12万石)は改易になったこと、朽木元綱(朽木1万石)は、関ヶ原合戦で東軍に内応したため、旧領安堵されたこと、京極高次(大津6万石)は、大津城で籠城戦をして、1万5千人を引き留めたという功によって、若狭小浜9万石に加増されたことが述べられていました。
 むろん、三成は京で処刑されたわけですが、正家も水口で自害し、両者ともに罪人として、首を三条大橋のたもとにさらされました(三成と同じく処刑された小西行長も安国寺恵瓊も同様ですが)。そういうふうに家康がしたことによって、三成らに謀反の罪を着せたわけであり、一時は「内府ちかひの条々」によって政治的正統性を剥奪されていた家康(白峰旬氏「新『関ヶ原合戦』論)が、その地位を挽回し、豊臣公儀の名の下に三成たちを断罪にしたことになります。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1873 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」9 松下浩氏の報告4 軽視できない秀頼 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる