関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1879 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」15

<<   作成日時 : 2017/03/23 22:03   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付の拙ブログ記事の続きです。
 「1600年日本年報補遺」には、石田・毛利方は「八万人を集結したが」、「奉行たちの相互間の意見の一致はいとも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである」という記述があることは昨日の拙ブログ記事でも取り上げました。
 石田・輝元方に「八万人」の軍勢が揃ったのは9月になってからで、それまでは軍勢不足から、岐阜城を落として赤坂に陣した家康方を攻撃できなかったというのが実際のところでしょうし、その点で、宣教師側に事実誤認があったのではないかと思われます。むろん、三成・毛利方の軍勢が揃った時点で、赤坂を攻撃することは可能だったかもしれませんが、8月23日に岐阜城を奪われて、戦略の立て直しを余儀なくされたはずですから、すぐには無理だったとも考えられます。三成らはそれまで岐阜城と大垣城を結ぶ線あたりで防御しようとしていました(そのことはオンライン三成会編『三成伝説』【サンライズ出版でも記しました】)。
 「1600年日本年報補遺」には、「内府様は時間が無駄に過ぎぬよう、尾張へ到着したその日に、美濃(引用者注 尾張ヵ)にいた軍勢と合流し、そのうち五万の軍勢を擁するようにした」という記述がありますが、「引用者注」とあるのは白峰氏の注という意味です。この記述について、白峰氏の同書には、「家康が到着し合流して家康方の軍勢が5万になったとしているので、家康が江戸から引き連れて来た軍勢は2万だったことになる」と指摘されています。
 家康が江戸から連れて来た軍勢は普通、3万といわれており、このことは本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)に、「3万人ともいわれる家康の旗本部隊」と記されていますし、桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)には、3万人といわれる根拠について、「東照宮御事蹟」9月1日条にある「都合御勢三万弐(に)千七百三十騎」という記述が挙げられています。もっとも、「関原集」には家康の本隊が一万五千人と記されていることも紹介されていますが、その記述は採られていません。なお、桐野氏の同書では、東海道を進んだ秀忠隊と、東海道を進んだ家康隊のどちらが主力であったかという議論は有効ではないということも論じられています。

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