関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1885  中野等氏「石田三成伝」20 後陽成天皇の聚楽行幸

<<   作成日時 : 2017/03/29 12:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1586)4月14日から18日にかけて行われた後陽成天皇の聚楽行幸について触れられています。
 その中で、「聚楽行幸に際して、関白秀吉はみずから禁裏に天皇を迎えに出る。秀吉の前駈として直臣が左右にそれぞれ三七騎配されるが、左列の先頭が増田長盛、右列は三成が先導した。儀礼上のこととはいえ、三成は増田長盛とともに、『関白家来の殿上人』の先頭に配されたことは注目してよかろう」と記されています。
 増田長盛とともに「三成が先導した」という点については、以前に拙ブログ記事で取り上げたことがあります。
 またこの時、「秀吉は後陽成天皇に、京中の地子銀(じしぎん 家地などに賦課された取得物)五五三〇両あまりを進上し、京中地子米のうち三〇〇石を正親町(おおぎまち)上皇に、また五〇〇石を『関白領』として六宮(のちの八条宮智仁【としひと】親王)に献じ、諸公家・諸門跡に知行の加増を行う。諸家に残る知行充行状(あてがいじょう)によると、その原資には近江国高島郡があてられており、ここに三成が代官として関わっているようである」と指摘されています。
 その根拠として挙げられているのは、天正16年5月25日付で三成・増田長盛が連署して発給した「近江国高島郡百姓目安上候 付書出条之事」が、「駒井日記」の文禄2年(1593)閏9月25日条に掲げられていることです。
 聚楽行幸に関して、中野氏の同書には、次のようなことも記されています。
 「この行幸は、豊臣政権が志向する『国制』の確立を内外に示すものであった。三成も、『関白家来の殿上人』の中心人物として、この盛儀を取り仕切ったと考えられる。しかし、それはあくまで『裏方』の仕事であり、残念ながらその詳細をうかがうべき史料は確認できない」と。
 この聚楽行幸がいかに派手なものであったかについては、山室恭子の「黄金太閤」(中公新書)の中で、「聚楽行幸記」の記述内容が次のように紹介されています。
 「楽人たちの奏する妙なる調べのなか、公家・武将たちの極彩色の大パレードが天皇の乗った鳳輦(ほうれん)を中心に洛中をしずしずと進む。牛の角まで金箔で塗られていたというその目もあやな行装に『五畿七道よりのぼりつどひたる貴賤老少』が歓声をあげるという次第で、行きと帰りのパレードは、衆庶に見物させる華麗な王朝絵巻として演じられた。
 そして聚楽に天皇が滞在した5日間、饗宴・和歌会・舞楽とさまざまな遊興がひっきりなしに繰り広げられる。なかでも目を引くのは秀吉の派手な贈り物攻勢である」などと。
 その贈り物の具体的な内容が、山室氏の同書に記されていますが、その原資が高島郡であったことになります。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1885  中野等氏「石田三成伝」20 後陽成天皇の聚楽行幸 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる