関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1865 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」2 尾下成敏氏の講演2 家康関東転封の目的

<<   作成日時 : 2017/03/09 21:20   >>

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 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が小田原攻めの後、関東に転封になったその理由について、秀吉が家康を左遷させたわけではなく、家康に関東とその以東の平和を維持させようとするためであったとする川田貞夫氏の見解が紹介され、講演でもそれに賛意が示されていました。その引き換えに家康は近江に9万石という破格の所領を与えられたと云います。この所領は家康が在京に必要な経費を用立てるためのもの、豊臣政権の施策などに貢献するためのものでした。
 後者については、具体的に二つの史料が挙げられていました。一つは文禄3年(1594)1月の「駒井日記」の記述であり、その内容について「秀吉、京ー清須間の宿送御用に際し、伝馬・人足を供出するよう命じる。瀬田ー守山間、守山ー八幡山はこの命令の対象地域」だということが、講演会のレジュメに掲載されていますし、そういうふうに説明されていました。
 もう一つは慶長2年(1597)6月の「善光寺文書」の記述であり、その内容について「秀吉、甲斐の善光寺如来を東山の大仏殿に遷座させるよう命じる。この時家康は、石部ー草津間で人足・伝馬を供出するよう命じられる」と、やはり講演会のレジュメに掲載されていますし、その説明もされていました。
 秀吉が、家康に対して近江三郡(野洲・甲賀・蒲生)で9万石を与えたのは、天正19年4月23日のこと(「大谷雅彦氏所蔵文庫」)で、家康を近江の街道近辺で所領を与えるのを約束したのは、その前年の9月のこと(「個人蔵・片山正彦氏所蔵写真」)でした。
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「近江国では(天正19年)閏正月から検地が実施される。この成果をうけ、三成は4月27日付で、近江国犬上・坂田郡と美濃国の豊臣家蔵入地代官を命じられている」と記されています。
 家康に近江の領地が与えられたのも、近江検地の成果をうけてのものだと思われます。三成も家康もほぼ同じ時期に近江に領地を与えられたということもそのことを物語っている気がします。三成はこの時点で、「佐和山城を預かってい」ましたが、「近江国内の豊臣家蔵入地を支配する代官としての立場」であり、「三成は大名として10万石程度の領知を美濃国内に得つつ」のものであったと、中野氏の同書で指摘されています。
 近江の徳川領については、すでに天正14年の時点で存在していたという播磨良紀氏の見解があるものの、その点は現在のところ確認されていないという指摘もありました。
 

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