関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1892  中野等氏「石田三成伝」27 出羽庄内の問題に関わる

<<   作成日時 : 2017/04/10 10:07   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が出羽庄内の問題に関わったことについても記されています。
 まず出羽庄内の情勢ですが、「武藤(大宝寺)家の弱体化にともない、山形の最上氏へ依存しようとする勢力と、本庄繁長(越前守)を通じて越後の上杉景勝に接近する勢力との対立が深まっていた。天正15年(1587)の年末に武藤(大宝寺)義興が没すると、その跡に、本庄繁長がみずからの実子千勝丸(のちの義勝)を入れたため、これを不服とする親最上勢力が挙兵する。翌16年9月、本庄繁長はこの鎮圧を成功するものの、最上と本庄、双方の言い分を聞くため、秀吉は両者の召喚を命じた」と。
 本庄繁長は上杉景勝の重臣であり、関ヶ原の戦いの際は、福島城を任されていました。また繁長の三男の長房は、文禄2年(1593)に兼続の養子となって与次郎と名乗りますが、翌年に平八景明(へいはちかげあき)が生まれたため本庄家に出戻りました(橋場日月氏の「直江兼続関連人物事典」『新・歴史群像シリーズ 直江兼続』【学研】所載)。
 中野氏の同書では、最上義光の奏者を富田一白が、上杉・本庄方の奏者を三成・増田長盛が務めたことが記され、天正16年12月9日付の上杉景勝宛の秀吉書状が取り上げられています。
 この書状について、「秀吉は、出羽庄内をめぐる紛争に決着を付けるため、一方の当事者である上杉家中の本庄繁長を上洛させるよう求めている」と説明されています。その書状の最後に、「なお、増田長盛・石田三成も申述する」と記されていますが、「現物は確認されないものの、直書には書き留めに名がみえる二人の奏者、三成と増田長盛の副状も付せられていたと考えられる」と記されています。
 これを受けた、12月28日付の繁長宛上杉景勝書状も取り上げられていますが、「これから推して、秀吉直書に『来春』の上洛とあったにもかかわらず、増田長盛・石田三成の連署副状には、すみやかな上洛が要求され、また、上洛するのは本庄繁長自身ではなく、実子千勝丸でも構わないことが記されていたようである」と推定されています。
 しかし、「千勝丸上洛の時期は、結果的に大きくずれ込」み、千勝丸は「ようやく6月28日に上洛を果たし、7月4日に至って秀吉に拝謁する。京で元服した千勝丸は、武藤(大宝寺)家の継承を秀吉から承認され、実名を『義勝』と称することになる」などと記されています。
 この千勝丸上洛に関して、中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』)には、三成と長盛は「その引き廻しを行なって」いると記され、中野氏の「石田三成伝」でも同様のことが記されています。典拠は「大宝寺義勝日記」です。
 

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