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zoom RSS 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」1 朝鮮出兵以前

<<   作成日時 : 2017/04/13 10:09   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、天正9年の織田信長の時代から、秀吉の時代(天正13年から18年の関白就任以後から朝鮮出兵より前の時代、天正19、20年の朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い、石垣原合戦に分けて、軍役人数がどのように記載されているのか記され、それに対する考察が加えられています。
 信長の時代は「天正9年の事例が出てくるのみであるが、信長や柴田勝家のほかに武田信玄(引用者注 武田勝頼が正しい)の兵力数が出ている点は注される」などと記されています。白峰氏の同論考には、「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数・石高関係の表」が掲載されていますが、武田氏は「1万5000の兵」と記され、備考に「高天神城へ糧食を運ぶ」と記されています。
 この翌年に武田勝頼は滅び、それからまもなく信長も本能寺で滅びます。
 天正13年に秀吉は雑賀攻めを行ない、三成もその戦いに近臣として従っていますが、同史料には、「宇喜多秀家(先陣)の兵力数を2万、蒲生氏郷(先陣の次)の兵力数を5000としている」という記載について、「宇喜多秀家の石高は57万石4000石なので、1万石につき300人を軍役基準とすると(この場合、計算上、無役高は考慮しない)、1万7220人になるので、上記の2万という数値に近似する」と指摘されています。
 宇喜多秀家の兵力数について、大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)には、「泉州堺における行軍の模様をルイス・フロイスが書き留めているが、秀家は、そこで2万の兵を率いて秀吉以下を先導するという、華々しい役割を与えられている。この後行われた戦闘において秀家が先陣に立ったわけではないが、堺におけるこの行軍が、いかに衆目を集めたかを想見することはむつかしくない」と記されています。
 宇喜多秀家が先陣でなかったことも指摘されていますが、先陣を務めたと思われる秀次が千石堀城攻めで功績を挙げたことが、小和田哲男氏の「豊臣秀次」(PHP新書)に記されています。
 「蒲生氏郷の兵力数5000」については、白峰氏の同論考で、「1万石につき400人の軍役基準であったことになる」と指摘されています。
 天正15年のバテレン追放令の際に改易され前田利家のもとに身を寄せた高山右近については、天正17年の時点で「たとえ戦役が起こっても、暴君(引用者注 秀吉)に仕える義務がない」という記載、天正18年の時点で、「何一つ責務(引用者注 戦時における軍役を意味する)を負っていない」、「彼は以前所有していた城も兵士も今は持っていない」という記載から、「戦時において、秀吉に対して軍役の義務を負っていないことがわかる」と指摘されています。

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