関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1895  中野等氏「石田三成伝」30 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して2

<<   作成日時 : 2017/04/16 10:45   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。
 7月5日付の金上盛実ら蘆名家臣4名に充てた三成書状が取り上げられていますが、7月朔日付の金上盛実3充ての三成家臣と思われる3人の連署状の3日後に出されたもので、「数日遅れた」のは、「摺上原合戦勃発の報を受けた三成として、確報を収集しその上で秀吉の判断を仰ぐ必要があったからであろう」と中野氏の同書で推測されていますが、その根拠となることが三成書状の中で触れられています。こういうことを率直に書いているのは、三成の律儀な性格を示していますし、相手の動揺を鎮め、相手の心も動かしたのではないでしょうか。
 この三成書状の中で、使者や救援のルートなどについて、次のように記されています。
 「陸上は道が支(つか)え行程に時間がかかると危惧されます。在京する(上杉家中の)千坂景親(対馬守)の従者が、その辺りの地理に通じているとのことなので、その者に命じ越前敦賀から船を使って、まず申し越すことにします。鉄砲・火薬・鉛に坩堝(るつぼ)と鋳型を副えてお送りします。いうまでもありませんが、味方の拠点を確実に維持してください。以上のことどもを蘆名義広様へもよろしくお伝えください」と。
 ここで「敦賀」という地名が出てきますが、船での物資輸送の拠点であったことがわかります。大谷吉継が敦賀の城主になったのは、天正17年の冬のことであり(敦賀市立博物館発行の図録「大谷吉継 人とことば」所収の「大谷吉継関連年表」)、この書状が書かれた直後のことです。敦賀の重要性および吉継の役割については、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の実像」(『歴史読本』2009年7月号所収)の中で、次のように記されています。
 「敦賀は聚楽第をはじめ大坂城、伏見城などの建設に応え、多くの建設材(『太閤板』)を京、伏見、大坂に供給する基地としても機能してゆくことになるのであるが、吉継の力量はこうした物流経済のなかでも発揮されてゆくのである」と。
 7月4日付で上杉景勝に充てた秀吉直書が発せられますが、「蘆名氏を支えるように上杉・佐竹両氏に命じ」たもので、「そこには三成の積極的な支持・関与があったことがわかる」と指摘されています。
 一方、伊達政宗側も書状を前田利家・富田一白・施薬院全宗に届けられ、この書状の返書を富田は7月13日付けで発し、その中で「秀吉に対するすみやかな弁明を促し、みずからも秀吉の代官として関東へ下向する旨を報じている」ことなどが記されています。富田は伊達家の奏者を務めていますから、当然の対応です。また利家や全宗も7月21日付、22日付で政宗宛の書状を出し、「秀吉への取り成しを約している」ことが記されていることも明らかにされています。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1895  中野等氏「石田三成伝」30 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して2 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる