関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1890  中野等氏「石田三成伝」25 三成の島津家指南4

<<   作成日時 : 2017/04/07 10:37   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正17年1月21日付の島津義久宛の細川幽斎・三成連署状が取り上げられていますが、「2日遅れの日付で、ほぼ同内容の指示が、義弘から国許の伊地知重秀(伯耆入道)に伝えられている」ことも記されています。
 この書状について、次のような解説がされています。
 「書き留めに『此旨可預御披露(このむねごひろうにあずかるべく)候、恐々謹言』とあるように、あくまで義久への披露状である。島津家中を政権の思惑に従わせる上で、義久の意向は絶対的である。義弘を上方に留めて政権の意向を詳細に承知させ、国許に帰った義久がそれを前提に親しく家中を動かしていく、というやり方が確認される。九州平定の頃から、島津家中をつぶさに見聞きした三成による大名統制の仕組みと考えてよかろう。
 こののちも、島津義弘が国許に発した披露状(『薩藩旧記雑録後編』)には、細川幽斎や三成との『相談』に言及しているが、とりわけ三成との談合や三成の支持が、格別の意味合いをもっていることが看取される」と。
 光成準治氏の「豊臣政権の大名統制と取次」(山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編『消された秀吉の真実』【柏書房】所載)には、島津家の取次だった三成が発給した書状が、義久宛5通、義弘宛12通、忠恒宛17通に分類され、署名、書止文言がどうなっているかが表にして掲載されています。それによると、「義久・義弘宛の署名はすべて実名+花押、宛所には脇付が付され、書止文言はほとんどが『恐惶謹言』となっており」、それに対して忠恒に対しては「『恐々謹言』という書止が過半を占めてい」るが、「これは三成と忠恒の年齢差や身分差、忠恒が後継者に過ぎないことを反映したものであ」ると解説されています。
 三成の取次の役割については、光成氏の同書で、「三成は機械的に秀吉の意思を伝達するのみではなく、自らの判断に基づいて政策指導を行ない、また、情報の取捨選択をした上で秀吉に報告するという面を持ってい」ると指摘されています。
島津家に対する三成の取次に関しては、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「豊臣政権の『取次』と奉行」で、次のようなことが記されています。以前、拙ブログでも取り上げたことですが。
 「三成は、島津氏が秀吉から命じられる役儀を果たせないことは『取次』である自分の面目を失わせることだとして、直接『国の置目あつかひの事』に口を出さざるをえない、と内々に告げています」と。
 ここからも、三成が島津家の指南的な役割を果たしていたことがわかりますが、その目的は島津家を豊臣大名化し、大名基盤を強固にするためでした。
 

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