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zoom RSS 石田三成の実像1891  中野等氏「石田三成伝」26 聚楽第落首事件と対本願寺政策

<<   作成日時 : 2017/04/08 10:29   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年3月13日付で三成・増田長盛が出した大坂天満の本願寺宛に出した「条々」が取り上げられています。これは、聚楽第落首事件に関して、これに加わったとされる牢人衆が本願寺に逃げ込み、秀吉の命を受けた三成と長盛が関係者の身柄引き渡しを要求し、多数の関係者が処刑された出来事に関してのものです。
 昨年放送された大河ドラマ「真田丸」では、この聚楽第落首事件についても描かれ、真田信繁が三成・大谷吉継とはかって、自害した尾藤道休を犯人に仕立て上げて、事態を収拾させようとする場面があり、このことは拙ブログでも取り上げました。この事件の詳しい経緯は、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に記されています。「真田丸」では、三成が切腹覚悟で秀吉に諫言して、これ以上の犠牲者を出さないように言っていましたが、実際には、多数の処刑者が出たわけです。もっとも、このように三成が秀吉の腰巾着ではなく、秀吉に対してストレートな物言いをしていたことについては、朝鮮出兵の際、現地の日本軍の悲惨な様子を見て、戦いを続けることの困難さを述べる書状が残っていることでもわかります。
 この「条々」の内容について、中野氏の同書では、次のように解説されています。
 「大半は本願寺側が提出した起請文を踏まえた内容だが、『条々』という法令のかたちをとったことの意味は絶大である。一連の過程を通じ、本願寺教団はその自律性を剥奪された。預物改めもさることながら、他地域を構いとされた(追放刑となった)人物の寺内居住も禁じられている。ここまで本願寺教団が保ってきた、あの種の『治外法権』は完全に否定され、寺内町の奉行すら俗権の主たる秀吉に命じられる始末である。町奉行となる下間頼廉(刑部卿訪印)・下間仲康(少進法印)が本願寺の坊官であることに間違いはないが、あくまで人事権は秀吉の掌握するところである。こうして、本願寺は政権への絶対的服従を余儀なくされるが、この弾圧的対応を進めたのは秀吉によって現地に遣わされた三成と長盛であった」と。
 ここで「本願寺側が提出した起請文」とあるのは、3月2日付で出したもので、「牢人衆を謀反人とした上で、本願寺が彼らを隠匿したにもかかわらず、教団としての成敗を免れたことに謝意を表し、今後『勘気之輩』や『科人』を匿った場合には教団として成敗されることを甘んじて受け入れると、誓約するものとなっている」と説明されています。
 この事件でも、三成は秀吉の意向を受けて、厳しい対応を迫られたものと云えます。処分が理不尽なものだということは三成自身、十分わかっていたはずで、その思いは「真田丸」で描かれていた通りだったのではないでしょうか。
 

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