関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1940 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」17

<<   作成日時 : 2017/06/13 10:09   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、小早川秀秋のことについて、「北野社家日記」の7月23日条、24日条、「義演准后日記」の7月25日条に記されています。
 「北野社家日記」の7月23日条は以前にも紹介しましたが、24日条も、「北政所が小早川秀秋の祈念のために御千度のことを命じ、200疋を下されたので申し付ける(北野天満宮)」と記されています。前述したように、この時、秀秋は伏見城攻めに参加していましたから、北政所はその無事を願っていたわけで、客観的には奉行衆・毛利方の豊臣公儀側の味方をしていたと云えるのではないでしょうか。
 「義演准后日記」の7月25日条の記載は、次の通りです。
 「小早川秀秋の制札を当所(醍醐)の南北の構えに打つ。(その文言は)一、濫妨狼藉の事、一、伐採竹木の事、一、田畠苅取の事、(であり、これを)寺領へ写して遣わした。毛利秀元が数万で近江へ進発した。(これは)東国(からの軍事的侵攻を)防ぐためである」と。
 この記載について、白峰氏の解説は次のようになっています。
 「なぜ大老の毛利輝元や三奉行の制札ではなく小早川秀秋の制札を掲げたのか考察する必要がある」
 「毛利秀元が数万で近江へ向けて進発し、今後西上が予想される家康方の軍勢を迎撃しようとしたことがわかる。豊臣公儀(石田・毛利連合政権)は、この時点(7月25日)で早くも家康方軍勢の西上を想定していたことがわかる」と。
 この解説の前者については、今後の検討課題だと思われますが、小早川秀秋の家格と官位の高さが影響していたのではないでしょうか。矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)には、「関ヶ原合戦参加主要大名の家格と官位」の表が掲載されていますが、それを見ると小早川秀秋は家格は「清華成」大名で、官位は「従三位権中納言」です。矢部氏が呼ぶところの「正規軍」(西軍)の中で、秀秋と同家格、同官位にあるのは、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家だけであり、いずれも大老です。秀秋も制札を掲げる資格があったのではないかという気がします。むろん、豊臣政権の中枢的存在ではなかったと思われますが。
 後者については、奉行衆・毛利方の豊臣公儀側は家康の西上を想定して手を打っていたことを示すものですが、7月30日付真田昌幸宛三成書状の中で、家康と共に会津攻めに向かった諸将が尾張・美濃まで帰陣しているという記載があります。また8月10日付佐竹義宣宛三成書状の中で、家康が西上してきた場合は、尾張と三河の間で討ち果たす予定だということが記されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1940 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」17 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる