関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1942 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」18

<<   作成日時 : 2017/06/16 17:57   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月26日条には次のような記述があります。
 まず「舜旧記」には「毛利(輝元)の内義より湯立(豊国社)」と記されていますが、このことは前述したように、7月18日条にも記されています。
 「北野社家日記」には、「毛利輝元より毎月の祈念料9寛文が来る(北野天満宮)」と記されていますが、これらの一連の毛利の行動は、戦勝祈願が主だったと思われます。
 「義演准后日記」には、「伏見城が落ちない(ことへの)懸念(がある)。家康が大和路へ出陣する旨の風聞がある、ということである。(毛利輝元が築城した)瀬田橋が完成した」と記されています。
 この記載について、白峰氏の解説には、「瀬田城については本稿の7月24日の項を参照」とあります。拙ブログ記事で前述したように、同日記の7月24日条には、「毛利(輝元)が瀬田橋に城を用意した、ということである」という記載があります。8月5日頃の時点における、「石田・毛利連合軍の諸将と動員人数」が、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)に掲載されており、「勢田橋爪在番」(瀬田橋防衛軍)として、「6910人」と記されています。家康らの西上に備えたものですが、すでに8月5日の時点で伏見城は落ち、奉行衆・毛利方の豊臣公儀側は美濃口、伊勢口、北国口へ進行し始めていますから、瀬田橋防衛軍は後詰的な位置づけだったと思われます。
 「義演准后日記」の7月27日条には、伏見城攻めのことだけでなく、丹後田辺城攻めについても記されています。
 すなわち、「伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める、ということである。丹後の細川忠興は、この度、家康に共奉(供奉ヵ)して、関東へ下った。よって、(秀頼様の)御敵に伏せられた(ので)、丹後へ数万(の軍勢)が向った。(細川方は丹後では)ただ一城(田辺城)になり、近日には落城するであろう、ということである。槇嶋にも(毛利輝元によって?)城が完成したという風聞である」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「家康に従って関東へ下向した細川忠興は『御敵』になった、という記載は注目される。この場合の『御敵』というのは秀頼様の『御敵』という意味であろう。つまり、『内府ちかひの条々』によって、家康が秀頼様の敵になったので、家康に従った細川忠興も秀頼様の敵になった、という理屈であろう」と。
 「内府ちかひの条々」によって家康の公儀性が剥奪されたとする白峰氏の見解を裏付ける日記の記載です。
 

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