関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1945 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」20

<<   作成日時 : 2017/06/19 10:23   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月29日条には、「大坂へ制札を取りに遣わした」という記載があります。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「昨日の騒動で小早川秀秋の制札(本稿の7月25日の項を参照)が役に立たなかったため。大坂(7月晦日条を見ると、三奉行の制札があることがわかる)の制札が必要になった、ということであろう。大老の毛利輝元ではなく、豊臣秀頼でもなく、三奉行の制札ということは、石田・毛利連合政権(豊臣公儀)の最高実務担当者は大坂の三奉行であったことがわかる。このことは、石田・毛利連合政権の実態を考えるうえで重要である」と。
 同日記の7月晦日条には、制札について次のように記されています。
 「(大阪の)三奉行衆の制札が来た。(その文言は)、一、軍勢甲乙人乱暴狼藉事、一、放火事、一、山林竹木伐取事、付、田畠立毛苅取事(である)」と。
 確かに、こういう経緯を見れば、小早川秀秋は前述したように、「清華成」大名で、従三位権中納言という高位にありながら、豊臣公儀のもとでは、実権を握っていなかったことが制札からでもうかがえます。
 「言経卿記」の7月29日条には、「伏見城を攻める」とあるだけですが、前述したように、この日、三成が伏見に来て督戦しています。その結果、伏見城攻めは劇的に変化し、翌日の30日には松の丸、名護屋丸が焼け、さらに翌々日に伏見城は落城しています。
 三成が伏見城攻めに車で佐和山にいたことを示すものとして、7月29日付の真田昌幸宛の三成書状の最初に書かれている記載が挙げられます。その部分、中野等の現代語訳によれば、「去る7月21日の二通の御使札(使者に持たせる書状)が、7月27日に近江佐和山(江佐)に到着し、拝見しました」(『石田三成伝』【吉川弘文館】所載)というものです。
 7月29日に三成が伏見城攻撃に参加していることを示すものとしては、同日付の真田昌幸宛宇喜多秀家書状の最後に、「なお、委細については、石田三成(石治少)から申し入れます」(中野等の現代語訳による。『石田三成伝』所載)と記されていることが挙げられます。この時、秀家は伏見城を攻撃していましたから、三成がそばにいたことがわかるわけです。三成はこの時点で「『三奉行』と同様の職権を得ていると見なされ」、「豊臣家の奉行に復職していた」という見解を中野氏は述べられています。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1945 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」20 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる