関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1953  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」3 地震で被害、改修

<<   作成日時 : 2017/06/28 10:16   >>

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 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」の続きです。
 天正13年に起こった天正大地震の際、佐和山城も被害を受けたことについて、佐和山城が壊滅したとの記述が一次史料にあることにも触れられていました。地震の被害の後、佐和山城本丸を中心とした山上曲輪群の改修が開始されたという説明もありました。この改修について、実施したのは城主の堀尾吉晴ですが、その設計図を書いたのは田中吉政ではなかったかという、注目すべき推定が下高氏によってされていました。吉政は八幡山城や岡山水口城を参考にして、佐和山城を改修したと。そういう吉政だったからこそ、佐和山のことを知り尽くし、関ヶ原の戦いの後の佐和山城攻めで、水の手から攻めることができたのだと説明されていました。吉政は秀次に代わって八幡山城を築城し、治めた人物ですが、佐和山城との関わり合いについてはあまり触れられたことがなかったので、興味深い見解だと思いました。
 天正大地震が起こる直前、秀吉が家康を討つべつ大規模な準備を整えていたものの、秀吉側の城に大きな被害が出たため、家康を攻撃するのは取り止めになったこと、地震が起こった時は秀吉は坂本城にいたものの、慌てて大坂城に逃げ帰ったことにも触れられていました。
 天正18年の北条攻めの後、三成は佐和山城の代官となりますが、正式に城主になったのは文禄4年(1595)のことです。すでに堀尾吉晴によって佐和山城は大改修されていますが、三成が拡張整備を行った箇所として、山上曲輪、城下町が挙げられていました。城下町が三成の時代によって作られたことは、発掘調査による出土物から確かめられることだと説明されていました。外堀・町屋・金属工房が成立したのが三成の時代であり、外堀と内堀の間が城下町であり、町屋が中心でした。侍屋敷は内堀の内側に作られましたが、それは吉晴の時代であり、三成の時代に改修した可能性があることは、史料のレジュメに掲載されていました。
 佐和山城跡の瓦については、古い瓦は本丸・太鼓丸・法華丸で確認されるのに対して、新しい瓦は三の丸や千畳敷など瓦が確認されない曲輪は除いて山上の曲輪全体に確認できるという調査結果が紹介されていました。このことから山上曲輪は吉晴によって改修された後、三成の時代に再び改修されていることがわかると説明されていました。
 三成屋敷の位置も推定されていましたが、西側の山麓の米蔵があった、その奥(山寄り)ではなかったかと指摘されていました。
 

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