関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1954 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」26

<<   作成日時 : 2017/06/29 18:05   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されており、その続きです。
 「中臣祐範記」には次のように記されています。
 「昨日の一日に伏見城が落城した。伊賀の城を(留守居の家臣が)増田長盛に渡した。(伊賀の城の城主である)筒井定次は(上杉討伐のため)関東へ出陣していた。よって留守居衆の十市・布施・片岡そのほか少々が(伊賀の城に)いたが、(城の明け渡しは)しかたがなかった」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「筒井定次の居城である伊賀上野城を、定次の留守中に四奉行の一人である増田長盛が受け取った、ということは、豊臣公儀(石田・毛利連合政権)が家康方になった筒井定次を改易にしたことを意味しており、その点で注目される」と。
筒井定次は家康に従って会津攻めに従い、家康方に就きますが、伊賀上野城を奪われたものの、後に取り戻しまし、筒井家は存続します。もっとも、定次は大坂の陣で自害させられますが。
 嶋左近は定次に重臣として仕えていましたが、定次のもとを離れてしまいます。その後、三成に仕えたとされていますが、筒井家に仕えていた嶋左近と、三成に仕えた左近とは別人だとする(嶋左近が代替わりしていた)坂本雅央氏の見解があります。別人かどうかは今後の検討課題です。
 なお、8月1日付、及び8月2日付で、三成は長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行、毛利輝元・宇喜多秀家の二大老と連名で書状を出しています。1日付は蒔田広定宛と木下利房宛のもの、2日付は真田昌幸宛のものです。これらの連署状は以前に拙ブログ記事で取り上げたように、白峰氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」に掲載されていますし、その内容(摘要)も記されています。三成が奉行に復帰したことを示す連署状ですが、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」の中で、すでに7月15日付の上杉景勝宛の島津義弘書状の中に、「詳しくは石田三成より述べる予定である」との文言があることから、三成は「実質的にこの時点で奉行に復帰していたと見なしてもよい」と指摘されています。「内府ちかひの条々」が出されたのは7月17日ですから、それより前のことになります。
 

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