関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1933 中野等氏「石田三成伝」45 北条攻め9 忍城攻め2 

<<   作成日時 : 2017/06/06 10:08   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めは三成の発案ではなく、秀吉の指示によるものだったという見解が示されていますが、それについて中井俊一郎氏の先行研究があるにもかかわらず、そのことについての言及がないことを拙ブログ記事で前述しました。中野氏の同書の参考文献として、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)も挙げられているのですから、中井氏の先行研究があることには触れるべきだと思います。中野氏の同書で他の学者の先行研究についてはたびたび言及されているのですから、なおさら残念な気がしてなりません。
 中野氏の同書には、中井氏同様、6月20日付の秀吉朱印状も取り上げられ、その朱印状について次のように解説されています。
 すなわち、「三成は築堤計画を絵図にまとめ、秀吉のもとに送った」ところ、「堤防の計画図をみた秀吉が、三成に対して重ねて指示を与えた朱印状」だと。
 その朱印状には「浅野長吉・真田昌幸の両名を派遣する」と記されていますが、実際に浅野長吉が忍城に到着した日時について、中井氏の同書には、「当時、鉢形城攻略中であった長吉は7月1日頃に忍城に着いた模様である」と記されており、また7月3日付の長吉宛秀吉朱印状が取り上げられ、「武功を上げた長吉を水攻め方針違反として叱責する内容である」と指摘されています。
 この7月3日付の秀吉朱印状は、中野氏の同書でも取り上げられ、次のように解説されています。
 「秀吉は忍城皿尾口(さらおぐち)の突破に成功した浅野長吉の武功を賞しつつ、その朱印状で『兎角水責ニ被仰付事』とも述べており(大日本古文書『浅野家文書』21号)、城攻めの基本戦略は、やはりあくまで水責めであったことがわかる。また。三成が現地軍の指揮はとるものの、最終的な作戦の立案は秀吉が行なっていたという事実も、改めて明白となった」と。
 中井氏の同書には、さらに7月6日付の上杉景勝宛秀吉朱印状が取り上げられていますが、次のような内容です。
 「小田原では氏政をはじめ、その他年寄りたち4、5人切腹させます。(略)ついては(小田原の事は片付いたので)こちらへ来ずに、忍城へ早々に行って、堤つくりをしてください。14、5日頃には忍城の堤を見物に行きます」と。
 この書状についての中井氏の解説は次のとおりです。
 「なんと小田原攻めが終了し、北条征伐の趨勢が決まったあとにも関わらず、忍城水攻めを継続すると述べている。水攻めに対する秀吉の異常なこだわりが見てとれる」と。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1933 中野等氏「石田三成伝」45 北条攻め9 忍城攻め2  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる