関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1936 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」14

<<   作成日時 : 2017/06/09 10:20   >>

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白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の7月23日条には、引き続いて、伏見城攻めのことが記されています。
 「北野社家日記」には、「今夜、伏見で大鉄炮(『大てつはう』)がことのほか鳴る」と記されています。
 この記載について、白峰氏の解説には、「鉄炮の音と大鉄炮の音の違いを聞き分けることができたということか?」とあります。音のすさまじさが両者では全然違いますから、場所が離れていても、迫力の違いはよくわかったのでしょうか。特に夜だけに、よく音が響いていたのかもしれません。
 「義演准后日記」には、「昨日の夕方、小早川秀秋が伏見城 攻めの衆として着いた。(伏見城の)城内より火を出した。(これは伏見城)攻めの衆を射取る(弓矢で射殺すること)べきため、ということである」と記されています。
 前述したように、同日付の「北野社家日記」に北政所が秀秋の祈念をしていますので、この祈念は伏見城攻撃の秀秋の無事を祈るためでしたから、やはり北政所は奉行衆・゛されています。
 「時慶記」には、同日の大坂城の様子が記されていて、貴重な史料となっています。
 「西洞院時慶は辰の刻(午前8時頃)に大坂に着き、前田玄以の屋敷へ行った。(それから)金六に頼んで(大坂城の門を通行するための)門の切手の札を借用して(大坂城の)玉造口から入った。前田玄以は病気のため待たされた。その後、前田玄以に対面して病証(病気の状態)について話された。増田長盛に見舞いを申し置いた。毛利輝元との対面は心静かであった。(その時)酒により沈酔(酒に酔いつぶれること)した。脇坂安治のところで食事をして心静かに語った。脇坂安治の(上杉討伐からの)帰陣について珍重である旨を述べた。(その後)守口へ帰って泊った。毛利秀元・安国寺恵瓊・石田正澄等の衆の軍勢は多かった」と。
 この記載について、白峰氏の解説は次のようなものです(一部割愛しています)。
 「大坂城玉造口門に入るためには、切手の札が必要だったことがわかる」
 「この時点(7月23日)で、大坂城内に大老の毛利輝元・奉行の前田玄以、増田長盛がいたことがわかる」
 「この時点(7月23日)で、大坂城内にいた前田玄以は病気であったことがわかる」
 「西洞院時慶が毛利秀元・安国寺恵瓊・石田正澄等の衆の軍勢は多かった、と記していたのは西洞院時慶がそれらの軍勢を実際に見たからであろう」などと。
 この記述、解説について思うところは、次回述べます。

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